ホームズと実験
こんなはずではなかった、とジキルが俺の中で言った。
体が引き裂けるように痛み、目に見えるものが薄らぐ。俺には肉体という大きな海は泳げそうにない。
ジキルが。ジキルという男だけが、本来の姿なのだ。彼が自分を取り戻さぬことには、どうしようもなかった。
鏡の向こうで喘ぐようにして、小さく背中を丸めている。こちらを振り向きもせず、半分死んでいるのだ。
俺が自分自身に腹を立て、壁の奥に奴を閉じ込め続けた結果だった。
いかなる災難であれ常にその外側にいる男が――女が足元に立っていた。
薬の暴走は肉体だけではなく、頭脳を蝕んでいる。
どうしてホームズが女の姿を選んだのか不明だが、この短期間で薬を改良したとも思えない。
なぜ正気を保っていられるのか。
女になったホームズは、俺ではなくジキルに会いたがっていた。薬の予備が動機ではない。男のホームズを消す薬を欲したのだ。
あの夜の指揮を取るのは、本当ならば探偵のはずだった。アタースンや他の男たち、そして俺だ。
弁護士は、たまたま名前と職業が一致しただけで自分がジキルの妄想に使われていることも理解していた。
憐れな精神病を患う男を、ハイドという男が騙そうとしている……そう考えていたのだ。
探偵はジキルの精神分離状態を制御するのに、一芝居打つのが最もよい方法だといった。
多少の法律違反は目をつぶり、ハイドという男を落とし入れる――。
ジキルを助けようと承諾した者たちにはそう説明したのだ。俺にはただ、女を寄越すので誘いにうまく乗ったふりをしろと言った。
探偵は自分の思いつきに興奮したのか、青白い頬を染めていた。その女は自分だと、俺にも誰にもその時まで黙っていたのだ。
男の頭がどのように作り上げたのか、女は完璧だった。
その巨大な頭脳までも縛り上げ、一瞬足りともホームズという男を表に出られないようにするほどに。
誤算だ。
まだ完全には支配できなかったのだろう。予定は狂い、用意した役者はいかにワトスンの気を逸らすかという別の仕事に追われた。
俺だけが、彼女が探偵本人であることに気がついた。
彼女は俺と同じで、肉体的にも精神的にも、ホームズに成り代わることに固執していたからだ。女とは思えない強い力と武術で俺を倒し、詰め寄る。
俺は呆気に取られた。
いつから押さえつけたというのだろう。妄想で作り上げた、あらゆる機能性に優れる奔放で優雅な美しい女を。
自分を演じるのに疲れたのではなかったのか?
探偵としての役割さえ果たせれば、女でもいいのか?
それとも隣で呆然と立ちすくむ相棒のため、その性別を手に入れたのか?
今もまた、疑問の淵でさ迷っている。大量の薬漬けでおかしくなった頭でも。
さまざまな憶測が頭の中を駆け巡った。力つきた頼みの綱の代わりに、巨大な脳みその引き出しを全て確認するのは骨が折れた。
可哀相なジキルを目の前に、俺はもはや当初の目的を失っていたのだ。
女が俺の周囲に、煙草の灰を撒き散らしながら歩く。話していることは聞き取れなかった。
喘ぎ、奮え、絶頂に至るような声のみが部屋中に反響する。
女の姿態を目にするとジキルは焦って、やめろと叫んだ。
彼が最も恐れるものだった。女性に触れることはおろか、声を交わすことすら難しい。
彼が選んだ物語にぴたりとあっていた。
探偵のいうように小壜の中身が――ただ自由に、自分を望む人間へ変えてしまえるとすれば。
狂暴なのは俺ではない。それはおまえの作り上げた妄想だと言い聞かせる。
巨大な恐怖心が、別の姿を作り上げてしまった。
なにか別の強い者へ自分を変えようとしても、それは無理な話だった。怯える声に耳を傾けてやるだけで済んだのだ。
外見も中身も違って見せても、俺は彼だった。どれほど憎んでいても、女を大量に殺すような殺人鬼にはなれそうにない。
望まれるようになれない苦しさが探偵をあの注射器に引き寄せるとしたら。
小壜は俺たちにだけ必要なもので、探偵には意味がないのだろう。
ジキルにはなぜ俺が必要だったんだ。
なぜ俺を作り上げたんだ。
探偵が相棒の唇を捕らえたのを見たとたん、はっきりとした答えが聞こえた。
鏡の向こうでそれだ、とジキルが叫ぶ。
私が求めているのはこれなのだ。
どうして周囲は意に反することを望むのだ。
姿形がこう生まれついてしまっただけだ。
俺は――私は――。
探偵が振り返る。
急速に押し寄せた理性が私に膝をつかせ、人間としての体を取りもどしていた。知性の怪物は、その器にあった大きさになっている。
細身のおかげで完全に破きこそしなかったようだが、肩幅は無理があるようで糸がブチブチと音をたてて切れた。
壁際で小男が気絶する。
暖炉の前で鼻風船を割った太い男が高らかに拍手した。
自分より明らかに背の高くなった探偵に唇を奪われた男は
幾分残念そうに、お帰りホームズと言った。
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