ホームズと実験


 7


 突き飛ばすようにして入れ代わる。それがこれまでのジキルと俺の関係だった。



 いつ何時でも立場が逆転することはない。俺が奴の明るさ、強さ、自信、全ての部分を引き継ぎ、残虐性という皮だけ頂いて奴に恐怖心を与えていた。



 主導権を握るためだけに。



 室内で話をしていた男を探す。その時点で探偵はただの男だった。俺の誤算は奴と取引したことだ。


 ジキルではなかった。罠に嵌まったのは俺だった。


 私のことを知っているか、と男が聞く。俺は知らぬと嘘をついた。男は理解できたのかなんなのか、一つ頷いた。


「ホームズ。シャーロック・ホームズ」


 それがどうしたと俺は言った。

 ゴミだめのような部屋だ。窓にへばり付くと、異臭のする不気味な街が見える。

 黄色い霧が渦を巻いて建物をよぎり、雲から急に射した太陽に叫んでカーテンを閉じた。

 暗がりに、先程の男がいる。ジキルが助けを求めた男だ。


「僕の名前を知らない人間がいるのは非常に嬉しい」


 男は俺を無視して、楽器を手に取った。「実に自由な気分だ」

 男が奏でた音楽が何かは知らない。気が狂いそうな音が鳴った。やめろと言ったがいつまでも鳴り響く。手探りで男を探して、縋りついた。


「鯨はある特定の超音波に弱いらしい。Gの弦を締めすぎたんだが、君が嫌うのはこれかな」

「よせ! 何なんだ。ヴァイオリンか?」


 間近に見た男は、焦点があっていなかった。机の方に視線を移し、誘惑の根源に眉根を寄せた。

 小壜と注射器の中身がないことは見てとれる。俺のためにジキルが使用し、その隙に男は望みを果たしたのだろう。

 つまらなそうに弦をつまはじき、僕の計画に乗らないかね、と探偵は言った。


「もうじきワトスンが帰ってくる。僕の船長だ。彼は僕という人間を捉え、部分的に解剖し作り変えるのが得意でね。妄想の海で溺れる者などお構いなしに」


 そして推理の手法を無視して塩のようなスパイスを話に加える。この前の作品では、鯨を食べる国の武道が僕の命を救ったと男は笑った。

 ポットから中身を注ぎ、それが紅茶であることに気づくと、いきなり俺の肩を掴んで窓からもぎ離した。

 液体を全部下へ捨て、誰かの叫び声がしてもすっかり他人事のように空になったカップを覗いている。


「ホームズの物語は誇張されすぎて手に負えなくなった。探偵を殺すのに僕自身も承諾したのだよ。実際にロンドンからも消えた。小説の僕はあまりにも出来過ぎ、作りものめいて見える」


 俺はいよいよ気分が滅入り、頭を振った。

 ジキルが訪ねた探偵は、手に負えぬほど不気味だ。人間身を隠し、遠く離れた別の次元をその目が捕らえている。



 静かすぎた。



 そこに立っているのか疑わしい。まるで幽霊のように実像が見えなかった。


「ワトスンが捏造したのは他愛ないものさ。しかしこの件に触れると、彼は必ず話をはぐらかす。そして編集者や僕を演じる役者は濃い味つけをした。パイプやら帽子やら旅行着やら――君は見たことがあるかね?」


 俺が首を横に振ると、ホームズはああ! ありがたいと感極まったような声を出した。

 本棚に近寄って、手当たり次第に本を滑り落とす。麻薬の仕業であるから気をつけろとジキルが耳打ちする。

 余計なお世話だ。

 部屋から出ろという囁きを無視した。なぜ聞いてはいけないんだ?聞かれてはまずいことでもあるのか。





 男は俺に話している。おまえにではない。





 俺はジキルを完全に押さえた。声の聞こえぬほど遠くに押しやる。

 邪魔者は一時的でもいなくなった。


「兄に頼んで世間から身を隠した。チベットでも僕は自分の名前、知性の怪物の影に怯えて暮らしていたが。すべての根源はワトスンが退屈に任せて書いた小説だ」


 依頼人は男に理想の姿を押し付け、彼のその人並み外れた能力だけを求めて扉を叩く。実際の機能は別にして。


 ――俺には探偵の言いたいことがわかる気がした。


 俺にとってジキルがそのようなものだからだ。奴は共感のみを俺に求めるが、決して自由に動くことをよしとしない。

 探偵は自分が床にばらまいた書物の山を見つめ、羨望に似た眼差しをした。

 本の書き手が金字で刻印されている。特別に作られたものなのだろう。敬愛する親しい友人に宛てた一冊。

 この生活から逃れるためならお話の住人にさえ頼み込む、と男は続けた。


「お話の住人……?」


 探偵はまずいことを口走ったときのごとく、一瞬目を見開いて舌打ちした。しかしすぐに笑いを堪えて失敗したような表情で、饒舌になった。


「君を作った人はね、ハイド君。狂人の天才なんだ。スティーヴンスンの小説を再現する薬を作った。善と悪を分ける薬ではなく――完全に別人格を形成する薬だよ」

「どういう意味だ」


 探偵が散らばった本の山に手を伸ばし、紛れ込んでいたひとつを取り上げる。俺はその表紙を見て初めて、自分が誰であるかを知った。


 ひとしきり泣き叫んだに違いない。


 しばらくすると女の心配そうな声が部屋の外から聞こえたが、男は信じられぬほど優しい口調で、心配いらぬと答えた。

 探偵にはいくつもの顔があるのだ。その姿を変えるより楽に、相手の望む姿を演じてしまう。

 ワトスンという男の前では演じきれなくなったというのか。何が原因だ?



 男の灰色の目に答えはなかった。



 倒れるように側の椅子へ座り、内容を把握する前に記された日付を見る。かなり前であった。似せて作られた筋書きに踊らされていたらしい。

 ジキルとハイドという人物が、物語に合わせて作られたことは疑いようがなかった。

 探偵はどこまでも冷静だった。


「自分が作りものだと知っていたろう。残念ながら現実は、本の通りにいかないんだ」


 膝の上にもう一冊落とされる。それが男の本であると知り、悲しい気持ちで男を見上げた。

 俺は服の中に仕込んである小壜をいくつも手の中に取り出した。男は軽く頭を振って一つだけ摘むと、丁寧な仕草で懐に入れる。





「きみは物語の表に出てきたのだから、今度は僕を解放してくれなくてはね」




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