ホームズと実験
人間の頭の先と足の先を持って、細く引き伸ばしたような形状をしていた。
これが現実ならば腹に詰まった臓物や骨が突き出るのだろうが、異常なのは裾が足らずに服からはみ出した皮膚の引き攣れだけだ。
顔だけはそのまま博士なのだから始末に悪い。鼻のあるあたりに目や唇が集まったのは最初だけで、ぐぐっと元の場所へすべてが戻った。
肌が真っ赤になり目が血走る。濡れたような髪がバラけて、骨が折れるような音がさらに響く。
叫びはしない。静寂が緊張を煽った。
私は銃の撃鉄を上げ、撃とうとして思い留まった。レストレードほど銃口が震えているわけではないが、狙いを外す可能性が頭を掠めた。
――あれの近くにホームズがいる。
彼女は顎に手を当て、何かを思案しているようだった。
帽子は部屋の端まで吹き飛び、ほつれた髪が少しだけ首筋にかかっている。その長さで思い出す。
ホームズではない。アイリーンだ。
そんな当たり前のことをなぜ忘れてしまうのだろう。しかし、彼女はホームズがよくベイカー街の下宿でする、腰に手をやり歩いたり止まったりを繰り返した。
目の前のモノが見えていないのか?傍に駆け寄ろうとすると、レストレードの腕が私を引き戻した。
「あ、あ、アレはなんです。ドクター!博士はどうしたんです?」
「僕が知るものか……」
「ミス・ホームズは――」
私はその手を振り切り、立ち上がって近づこうとした。
姿を変えた博士はキョロキョロと天井近くの顔を見回し、床まで垂れ下がる腕をぶらりと下げている。
アイリーンはその下で床を見ながら歩き回り、ふと思いついたように見上げると、今度はなんと博士の周囲を歩いた。上質の絨毯が彼女の履いている靴の音を吸収するとはいえ、あまりに無防備すぎる。
私は中央の博士を刺激しないようにアイリーンの傍らにまで足を運んだ。
「アイリーン……!」
「銃はしまっていい。ワトスン、煙草はあるか?」
まただ。アイリーンの口調ではない。優しく舐めるような発音をせず、ホームズ特有の歯切れのよい乾いた喋り方をする。
なぜだ、と言う前に上着の中に細い手が入り込み、私は体を二つ折りにしかけた。
まさぐる指が箱を捕らえ、姿を文字通り大きく変えてしまった博士を見上げたまま、マッチを擦った。
「や、やめろ」
「パイプの方がいいんだが、今の体には刺激が強すぎる」
背筋をヒヤッとした汗が流れた。
今なんて言ったんだ?
見た目の美しいこの女は
これはいったい誰なんだ?
アイリーンは私に構うことなく、煙草を持った手で私を遮り、また歩き始めた。
「法医学的な発見、あるいは三流新聞の記事としては面白いが、いささか発想が陳腐すぎる。薬なしでは副作用……ハイド君のご主人さまは早く彼を体から追い出したかったらしいね」
博士がようやく体の下を動く小さい物に気づき、下を見たまま動かなくなる。
彼女は気にとめない。踝まであるかないかのスカートの間から、落ち着いた足取りで進むのが見えた。
「長い間飲んでいないようだな。小壜の場所は把握してるだろうが、触れないだろう?ジキル博士のストイックな性格が災いしている。もっとも」
アイリーンは煙草を口から外し、なんとその手で自分の片側の胸を持ち上げた。
「君の欲求が博士の理性に勝てば、薬を得ることは可能だよ」
呻いた声がレストレードのものか私のものかはわからない。危険な状況の中で挑発されたように感じて、思わず生唾をゴクリと飲み込む。
「う……ふぅ。ふふっ。可愛いジキル博士」
しかし、ジキル博士であったモノは――ハイドなのか別の何かなのかはわからないが――ホームズの仕草を見て、急におとなしくなった。
アイリーンは今度は煙草を口にくわえ、スカートの両端を持ち、娼婦がよくするようにステップを踏む。
渡したのでてっきり履いていると考えていたペチコートがない。白くて綺麗な脚線美が露になり、ふぅんと鼻から息を出した。
「ん……あァ。ハァ」
首をうんと後ろに反らして鎖骨に手を置き、首筋を撫で下ろしてあわや胸の奥深くに差し込むかと見せ。
腰を捻って髪を掻き上げ、舌先で唇を舐め婉然と微笑む。
心なしかこめかみに滲んだ汗と、眦尻に溜まった雫に、支配欲が沸き上がる。
「あァ……ふふッ」
自分の下半身に伸びた手を蛇の如く蠢かせ、急に嬌声を上げた。
見てはいけない淑女のあからさまな駆け引き。あるいはひとり寝室で行う密かな遊戯に。
早く目を逸らさなくてはと考えるのだが……その手はあらぬ場所を隠すようにして恍惚の表情を浮かべた。
荒い息を吐いたのは私と警部だけで、二人ともすでに紳士としての礼儀など忘れている。今度は現実に起きていることの方が信じられない。
私は理性を総動員して呼吸を整えるのに必死だった。
ありがたいことに、もっと見ていたい期待はよそに彼女は煙草を吸い、あたりに煙を広げる。
「どうだい。正気に戻れそうかな」
妄想や衝動が何もかも吹き飛んだ。
私は所在無く立ちすくみ、それでもいざ何かあったら、探偵の盾になれるような位置を保って、彼の後を追いかける。
彼。彼女。
ホームズ。アイリーン
それとも全く別のモノか。
いずれ博士のような姿になるのか。
「推理という名の憶測に、いくらだまされてきた、ワトスン」
アイリーンの言葉に身をすくませた。声は高いが、話し方がまるで違う。
目前で起こっていることには我関せず、目を瞑り寝ている風にしか見えないマイクロフト・ホームズの太い足を避ける。
自らの下を二人の人間に這い纏わられても、博士は荒い息を繰り返すだけで、その場から動かない。
彼女は煙草を吸いながら観察を続け、そういえばワトスンと言った。
「きみはダミーの雑誌は一度もめくらなかったのだが、小説のページをめくるのは早かったね。それで本を二冊買ってきたことに思い当たったのだが」
唐突すぎて一瞬何を言われたのか理解できなかった。わかったのはひとつだけだ。
――本を読んでいたとき、部屋に居たのはホームズで、アイリーンではない。
ホームズは、決定的な何かを私に隠していた。
その可能性を思いつかなかったのはなぜだろう。秘密主義だと自分で言ったではないか。
「ホームズ……」
それまで私と一度も目を合わせることがなかった彼が、立ち止まると肩越しに私を見た。
ワトスン、と応えた音程が下がる。私はそこに立っている背中が探偵そのものに見えた。
身長は六フィートより少し高く、
人を射るような鋭い目、
細い鷲鼻や、
角ばってがっしりした決断力のある顎など。
そこにはいないはずの彼の精神だけが、立って話をしている錯覚に陥った。
「観察力があれば子供でも一目で解けた謎に、先に理屈をつけられると…………君は僕の言葉を鵜呑みにしてしまう。自分の頭や目で見たことの方を疑うんだ」
居心地の悪い思いに、悪寒が止まらない。なんてことだろう。
私の手記こそが――私立探偵シャーロック・ホームズを知的な怪物として存在させているのだ。
「姿形に気をとられて間違うのも無理はない。ワトスン、騙して悪かったね」
いつから、と私が口にする前に。
ホームズは女性として存在したまま、混乱して舌が回らなくなっている私の方へ近づくと、少し上向きになり。
私の唇に、軽くキスをした。
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