医師とアイリーン
受けた衝撃があまりにも大きすぎて、私はその場を動けなくなってしまった。
ホームズの恋がどのような結末を迎えるにしろ、彼に気持ちがあったのなら――そうと知っていたのなら、傍にいた私にはなにかができたはずなのだ。
「ワトスン先生」
年を重ねてなお美しい女が、椅子に座り込む私の手を握った。
「書いてくれますわね」
私はゆっくり顔を上げ、首を横に振った。書けるはずない。ペンを持たなくなって久しいのだ。
私には荷が重すぎる。
「ああ、ミス・アドラー。私にはとてもだが」
「ミセスです。お忘れになったの。一度は結婚した身です」
私は唾を飲み、震える指先で額を押さえた。
「貴女はなぜ冷静でいられるのですか。貴女にとって、あの人は……大切な友人だ。私にとってのホームズがそうであるように」
アイリーンは膝を折ると、床に座った。ハッとして立ち上がる私を押さえ、再度指を絡める。
「あなたの大事な方について、話してください」
「彼女は亡くなりました。もうずいぶん若いころの話になります」
「それでもまだ、こうして偲んでいるのでしょう。何十年経とうと。私がゴドフリーを忘れていないように」
彼女の言った通り、遥か昔の結婚指輪がその手に光っていた。私の左手にもはまっている。互いの伴侶を早くに失い、何年経とうと悲しみは癒えない。
だが、同時に楽しかった記憶も思い出せるのだ。
私たちは幸福だった。どこまでも昔に遡り、美しい思い出を振り返ることができるのだから。
あの人は違う。悲しい思い出の中でしか、ホームズを覚えていられない。探偵の姿をかたどり、ベイカー街の霧に一生を捧げるのだ。
私が書いてしまわない限り。
「泣いてはいけません」
アイリーンの手が何度も私の腕を撫で下ろした。その目が曇り、私を下から覗き込む。
「あの人は――」
「出て行きました。あなたを見ていてと頼まれたんです」彼女は言った。「真っ青ですもの。あなたは病人のようだからと」
「一時間でさらに老けたのは間違いないでしょう。そして私は書くと約束した。勇気のいることでした」
「わかっています。わかっていますわ」
アイリーンの指が私の頬を掠めた。はからずも先程あの人にキスを受けた場所だと気づく。
伸ばした指先が触れ合い、金属のカチンという音が響いた。
私は急に落ちつかなくなり、暖かい手をそっとのける。アイリーンは気にする様子もなかった。ココアをもう少し飲みますか、と聴かれてうなずく。
不意に現れたよこしまな気持ちを、この女性には悟られたくない。白髪になっても、青い瞳の鮮やかさは若いころそのままだった。
アイリーンは重苦しかった室内の空気を入れ換えるように、優雅な仕草であちこち歩いた。
その姿を見ていると、気持ちも和らぎ新たな活力が沸いて来る。
聴いた話、感じたこと、覚えていることすべてを書いておきたい。以前に書いたものでは偏った視点が多すぎるのだ。まるでホームズの言うように、私の著作には……。
私は声を上げて笑った。アイリーンが盆を手にしてこちらを不思議そうに見た。
「不謹慎だな。いえ、忘れてください」
「なんですの?」
私は少し迷い、アイリーンに話した。あの人から貰った手紙の最後に、『あなたとワトスン先生が幸せな人生を送れますように』とあったことを。
いまはどう感じているかを。
「私は嫉妬していました。あの頃は気づかなかったが、きっとそうなのだろう。ホームズの関心のすべてが、あの人に向けられると堪えられなかった」
「男同士の友情は、女には入り込めない所があるのです」
「だからですよ。だから、嫉妬したのです。私には理解できないホームズの性格を許容し、ヴァイオリンや推理の論議を展開できる知性が彼にはあった」
「頭が切れすぎるところが、鏡の自分を見ているように似ていたかもしれません」
「ホームズが言っていました。僕の小説はロマンチシズムがあふれすぎて、肝心なことが書かれていないと」私は少し笑い返した。
「見てはいたけど、観察はしていなかった。下宿の階段の数を知らなかったみたいにね。そんな私に――二人のことが書けるのだろうか」
テーブルに置いたカップから甘い湯気が立ち上る。一口飲むと、ほどよい口溶けで私の口に合った。
アイリーンは心得たとばかりに口元を押さえる。人差し指を立てた。
「ボヘミア王のお話で、私とホームズさんの恋愛話が広まって困りました」
「しかし、ホームズは貴女の写真を……いやはや、あの事件が貴女の手柄でないとは、思えません。間違いなく彼の高い鼻をへし折ったのはアイリーン・アドラーだ」
私はジョークを含むように鼻を拳でついた。しかしアイリーンは首を横に振り、真面目な表情を崩さない。
何を言うつもりなのだろう?失礼なことを言っただろうか。
彼女は私の心配をよそに、カップを置いて立ち上がった。両手を握って私を真っすぐ見る。
「私の写真はホームズさんの遺品の中にありましたか。二年経った今はどなたが持っているのです」
私は焦ってペンを取り出すと、手に触れたナプキンに物を書くふりをした。
顔が赤くなっていなければいいが。ちらっと目線を上げると、アイリーンはにっこりと微笑んだ。
「その方にお伝えください。隣に眠る日が来ても、一番美しかったころの面影を忘れないで、と。傍に誰かの暖かさが感じられれば、あなたは書けるわ」
独りでないのだから、と言う。どういう意味ですかと聴いた。老婦人はしどろもどろしている哀れな老紳士の後ろに立ち、椅子の縁に手を添える。
あの人が触れたのと同じ場所に再度キスをし、さあ書いてくださいなと耳元で囁いた。
ヴァイオリンを手に、「僕の宝物だよ」と言ったホームズを思い出す。
私の宝物はこの先一生、胸ポケットに入っていることになった。
End.
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