怪盗と変態
時間は少し前に戻る。屈辱だった。他に言うことがあろうか。
手紙を書き始めると、義賊は一言も口を利かなかった。叫ぼうと喘ごうと嗚咽しようと――別にたいしたことをされたわけでもないのだが、ラウールは得意の武装能力が全く使えなかったのだ。
おかしい。明らかに変だ。力の出ない自分もあれだが、襲ってくるバニーの血走った目に何かがあった。
「ねぇ。ここはフランス的にはどう書くんだ、ルパン君?」
「……っ! ……んっ」
――なんだ今の。
固まったラウールに頓着せず、ラッフルズは感心したように呟いた。「『言葉にならない』。なるほどね」
「――あっ、いや」
「駄目だめ。もっと甲高い声をださなきゃ。年齢的には君のほうが有利なのだから。まだ青年で通るじゃないか」
バニーの手がシャツの間の胸を這う。それ以上に義賊の声がラウールの耳に響いた。
胸毛があるかないかはこの際置いといてもよいことだが、振り返ってみたラッフルズの目にはとりあえず映らなかった。
「地毛は金髪なのかい? 茶髪? 惜しいなあ。いや、君のことだからそこも染めてるのか」
「……ぁっ。や、め」
「まあいいか。君がどちらを狙っているのか知らないし」
後ろなのか前なのか、と指で輪を作り反対の指で卑猥に出し入れする。ラウールは震えた。「どう、いう」
「あの人は素敵だと思わないか。特に横顔が」
うっとりする。気持ち悪い。果てしなく理解不能である。
一瞬止まったバニーの隙をつき殴ろうとしたが、ラッフルズに手首を抑えつけられた。顔は反対向きのまま覗いてくる。
「ちなみに、下の毛の色は何色だね」
「なに……っ」
「言ったら楽にしてあげてもいい。バニーはしないよ。ケーキにちょっとしたモノを混ぜたんだが、彼はね」
僕しか眼中にないから下は触ってくれないだろうと笑った。
なんだって。乱交? まさかそれが目的だったのか。ラウールは息を殺した。疼くのは股間。まさか! ではお尻。……やめてくれ。
「ぁ」
頬を押さえて、綺麗な整った顔がおりてくる。思わず待ってしまった。触れ合うか合わないかのところで止まる。上に乗っていた重みがなくなった。ラッフルズはくすりと笑って、怪盗の鼻の頭にキスをした。
「時間稼ぎをありがとう」
バニーは床に昏倒した。ラウールはホッとしてゆっくり半身を起こした。振り返ろうとしたところで、カシャンと。音のした場所を見ると手錠が嵌まっている。顔をあげると注射を指で叩く男が目に入り、逃げようと足を出したが払われた。
「勝手に出歩かれては計画が台なしになるのだ。すまないね」
腰が脱力しているので立てない。住まいはラッフルズの名義だが、食事の用意は家政婦がしていたはずだ。朝っぱらからケーキかと、全部残していれば負けやしなかったのだ。
こんな優男には。
ほとんど半裸になっていたシャツブラウスをぐいっとやられ、至近距離で耳元に囁かれた。
「『ルパン対ホームズ』。英国人が全員あれに怒り狂ったのを忘れるなよ、怪盗君」
腕にぷすりとやられた。次に目覚める時はドーヴァー海峡の上だと。
復讐はきっちり成し遂げられたのである。
なんて男だ。自分の場合は部下に頼んでグルグルのギチギチに探偵を縛り、それでもなお逃げられたというのに。腐ってもスポーツ選手だったラッフルズは、男を一人雇っただけで自分たちを船に乗せた。薬に慣らした自分の体は、完全に意識を奪われるほどやわではなかったので、すべて見ていた。
「手紙、は」
直接渡す気じゃないだろうな、と呆れる。それではまるで単なるファンレターではないか。ずるい。ペンを寄越せと言いたい。
客船用の桟橋を荷物のように抱え上げながら、麻袋の中からでもラッフルズの涼やかな声が聞こえた。
「もちろん渡すさ。このためにフランスまで来たんだから」
本当は君と組めて嬉しいよ、と言われる。呻いても状況に変化はない。ご丁寧に枕など肩の下に入れられて、腕はしっかり縛られた。そう、探偵がされたようにだ。
見張りはなかった。それがあったからホームズは抜け出せたのだ。時間がかかっても解く要領は知っていた。しかし船の上ではどうすることもできない。昔の自分がそうしたように、周囲を騙して停泊したときを狙うか迷っているうちに。
船が沖合いに出てすぐ、扉は開いた。
ラウールは扉を開けたバニーがまだ少し熱っぽいのを見破った。そばに来るなと言いたい。
「気の毒に。ナイフを」
「靴下に入ってる」
「――抵抗しなかったのかい?」
ラウールの武器はあくまでも護身用だ。手加減せずに相手を殺すのであれば可能だったかもしれない。その気はなかった。中年の魅力に取り憑かれたわけではないが。断じてないが!
「相棒が何を企んでいるのか、知らないのかね。マンダース君」
「いいや」バニーは取り出したナイフでラウールの戒めを外してやり、首を傾げた。「探偵にサインでも貰う気なんじゃないかな。あるいは本気で――」
「君はそれで構わないのか?」
ラウールは手首やら足首やらをさすり、真剣な目つきで聞いた。バニーは呻いた。
「愛棒じゃ嫌だろう」
「よせ」
「乗り換える気かも」
「やめてくれ」
探偵のほうが優秀だし、と傷口に塩をすり込んだ。バニーは無言でナイフをラウールに向けた。
「計画殺人はラッフルズの得意分野だが。私に試させたいのか、君は」
「実際に手をくだしたことはないだろう。僕にはやれるが」
相手の立ち位置を計算に入れて、にっこり笑った。余裕のない怪盗ルパンなどただの仮面。少なくとも自分の伝記作家はそう表現するはずだ。背筋をつたう冷や汗は気のせいだと。
片眼鏡に夜会服、インバネスに鹿打ち帽とイメージが独り歩きしたようなものだ。現実の彼らはどちらも違った。……義賊の相棒は?
バニーは首を横に振った。
「君は賭けの材料になっていた。縄をほどかなければ、今頃そのまま海の底だったよ――狂人の相手をしたくないだろう」
おとなしく口は閉じておきたまえと言う言葉に、ラウールは手を挙げてうなずいた。
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