怪盗と変態


 息を切らして一言も喋れない中年男が隣に膝をついた。滝のような汗が流れている。探偵は草を抜き続けた。

「ホ、ム」

 ぐいっと肩を掴まれる。そのまま草に仰向けにされた。急な動きにつられて、反動で体が跳ね上がる。

「ワトス、ン」

 ドクドクと胸が音を立てる。血が逆流して、思わぬ展開に期待が膨らんだ。別の所も。

 ――やはり私を愛していたのだ。

 そうに決まってる。押し倒されて、こめかみの髪に指を絡めた。揉み上げの先の無精髭まで愛おしい。口髭の向こうに隠れた厚い唇や、弾力のある舌を味わいたい。

「あっ」

 丸こい膝が自分の長い脚の間に入った。枝のような手首を掴まれ、地面に押しつけられる。

 もう駄目だ。こんな場所でいい年をして、誰かに見られるかもしれない刺激で感じている。丘陵はなだらかとはいいづらく、このまま滑り落ちていきそうだった。

 一瞬脳裏を駆け巡る。いままであった数々の苦難の道のり。男同士であることへの絶望感。越えられぬ障害。喧嘩のすべてを。

 ――通らなくてはならない道だったのだ。

 出っぱった腹が視野の隅に入ろうと、もはや気にもならない。一緒にトルコ風呂でいちゃいちゃした記憶を手繰り寄せ、馬鹿だなあ。あんなこと書いたら変な噂が立つのは目に見えていたのにと、泣きそうになる。あれが別れの主な原因だった。ワトスンの繊細すぎる感性では、読者の後ろ指と蔑むような笑いが堪えられなかったのだ。当然だ。

 頬に手を当て、見つめ合った。切れていた呼吸を整えて動く胸のシャツの間から、自分に足りない男らしい茂みまで確認し、生唾を飲みこむ。

「ワトスン。ここでは」

「ここ、でいい」

 はぁと息をついて苦痛に堪えている顔がセクシーだ。もう疼く場所が限界だった。裸で密着して、その辺でよく見る野性の馬のように犯されたい。探偵は目尻に涙を溜めて、欲望に打ち奮えるワトスンの顔を撫で回した。さあ来い! 準備万端。何故なら蜂蜜づけでどこもかしこも開拓してある。

 奇跡はいつ起きるかわからないから、あらゆる研究に余念はないのだ。

 喘ぐ唇と嗚咽しそうな高い鼻が近づいた。あと少し。もう間もなく半世紀生きてきて初めての悦楽の時間を自分は過ごすのだ――!

「ホームズ」

「なんだい、ワトスン」

 焦らしか。すごい、さすがだよワトスンと褒めちぎりたくなる。いままでと逆だ。家のほうがやっぱり初めてはいいと気づいてくれたのか? きっとそうだ、そうに違いない!

 暑い陽射しの中でくんずほぐれつ、硬い地面の上で激しく突かれたら腰がもたない。

「君。フランスへ行ったかい?」

 ふるふると首を振る。男の影を気にしてるのか。最近国外へは出てないよ、と頬を染める。よかった、多少日焼けした肌で真っ赤な顔を見られずに済む。

「誰か――殺したのかい」

「馬鹿な。なに寝ぼけたことを言ってるんだ」

 シャツのボタンをそっとバレないように外す。薄い上着ははちきれそうだった。太いということは重い。すなわち力強いということだ。ぎらぎら光る目を見ていると、もう待てなかった。達してしまいそうだ。

「能書きはもういいから、早く」

 髭を掻き分けて目をつむり、唇を突き出す。ドキドキとその瞬間を待った。ワトスンは探偵の状況に気づき、急いで離れた。

「まだそんな冗談をやってるのか。人が悪いぞ」

 探偵はムカッ腹がたって、プーさんを押し倒した。馬鹿やめろホームズと言う体を、怪力で捩り伏せる。

「私はいつだって本気だった。君が……君がっ」

「時と場所と場合を考えて行動しろ、君らしくもない。うわ、服を脱ぐな!」

 ワトスンは隙を見てころころと這い出した。これを見ろ! と何かを掲げてくる。ズボンのチャックに手をかけていたホームズは、それをじっと見た。――本?

 表紙の名前は、知りたくもない相手。


 『怪盗ルパン』の新作だったのだ。


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