怪盗と変態
ホームズは――ホームズであった男は、うなだれた。「なぜ、そんな」
「君のウィルソン君に怪盗ルパンの新作を送ったのは僕だ。ついでにいろんな所に手紙を書いてね。フランスにはガニマール警部、ベシュ刑事、イギリスではマッケンジーにレストレード警部」
ラッフルズはなぜか最後だけ言葉を切り、小さく笑った。
「暇な誰かが人を寄越すだろう。名探偵の名前を騙ったことだけでも、君の逮捕は残念ながら確実だ」
「――何が目的だ」
よくぞ聞いてくれた、とラッフルズは手の平を擦り合わせた。駆け引きに出るつもりなのだ。悪党の逮捕に興味がないところが、まさしくこの義賊らしい部分だった。
「ルパン君が持って帰った代物は、とてもじゃないが僕の博物館にコレクションとして置けないんだ。本物があるだろう」
――ストラディヴァリウス。
盗みではなくビジネスだよ、と念をおす。探偵はため息と共にうなずいた。
「本物が使っていた注射器もあるが」
「無粋な物には興味がないな」
ラッフルズは、探偵が開けた箱を見るのさえ拒んだ。バニーが心配そうにしている。反撃を恐れているのだろうか。似非探偵なら心配ないはずなのだが。
縛られた手を解かれ、ホームズはソファの隠し棚からそれを出した。ヴァイオリンはケースごと手渡される。ラッフルズは中身を確認して、楽器を撫でた。
見た目でわかるはずはない。贋物も精巧に出来ていた。義賊は音を確認せずケースを閉めた。ラウールはやれやれと首を振る。やはり素人の泥棒だ。あれでは騙されてもおかしくない。
「さてと。お土産も頂いたことだし、我々はおいとまします」
「……え?」
ラッフルズはバイオリンと上着を手にして、肩をすくめた。「ハドソン夫人によろしく。彼女もかなりボケてきたようだ。机の上のカップは砂糖入りの紅茶でなく、紅茶入りの砂糖だった」
「なぜ――」
「捕まえるのは私たち三人の仕事ではない。捕まるのもね。警察関係者に連絡などしておりません。どうぞ相棒のウィルソン氏と仲良く暮らしてください」
バニーは探偵の相棒を離した。よたつく中年を椅子に座らせてやり、落ち着くようにと本棚のほうから葉巻を取り出し、くわえさせる。
さっさと出て行く義賊二人を目で追って、ラウールは唖然とした。
同じく正体を見破られて悔しそうな探偵は、唇を噛んでラウールを見た。
「何をしに来たんだ? 私の鼻を明かすことだけが目的だったのか」
ラウールは首を振った。確かに過去に出会った男は彼だ――再会したと思っていた英国の私立探偵は。闘ったと考えていた相手は。「ホームズさん。いえ、貴方が本当は何というお名前なのか知りませんが」
それ以上、言葉は出なかった。探偵は静かにうなずき、きっぱりと言い放った。
「ルパン君。同国人として私が君に会うことは二度とない。これでさよならだ」
ラウールは憧れの人が本人でなかった事実に打ちひしがれ、どのようにして表に出たのか後にも思い出せなかった。
外は真っ暗で、閑散としている。馬車ひとつ拾えるかわからない。義賊が相棒に頼んで捜しに行かせるのを見計らい言った。
「知っていたのか……? 初めから。なにもかも」
「当たり前じゃないか。『パーカー街の探偵』がいることも、君が横恋慕している男に相手がいることも、彼らがホームズの単なるファンであることも」
残りはルブランに問いただしてみろ、と言われる。
探偵社を立ち上げさせた理由はわかっているだろうね、と眉を上げた。名義はフランスを出る前に書き換えてあると話す。
「今後は英国のホームズに関わらないほうが身のためだ。この事件は僕たちの胸の中へしまっておくとして、君はきみの仕事をしたまえ」
「貴方は……どうなさるんです?」
変態紳士とばかり思っていた義賊の横顔には、深い哀愁のようなものが見えた。「僕はね――引退するよ。養蜂家もいいかもしれないな。昔からの夢だ」
胸がざわついた。彼はなぜ、わざわざフランスまで自分を呼びに来たのだろう? 滝後の探偵小説は、模倣の嵐だった。探偵の性格もまるで変わってしまった。
「いつから気づいたんです。僕の探偵が、本物でないことを」
「実物のアドラーはもっと美人だったからね」
手首をとっさに掴む。
彼は――ひょっとして。
「貴方は」
ラッフルズは手首をそっと自分のほうに引き戻し、ポケットからサリヴァンの煙草を出す。火を点けると、別人のように見えた。役者のように、自分を演じ分けている。
ラウールが口を開く前に、ラッフルズが言った。
「今回盗みを働いてないじゃないか。プロ意識に欠けるね、君は」
僕が君から盗んだものを『ワトスン』に言うんじゃないよ、とタイを引っ張られる。挨拶のように軽く触れただけで離れた。唇を押さえると、年齢不詳の義賊が微笑む。
「なかなか楽しかった。また会おう、ラウール」
アルセーヌではなく、その名を口にした。ラウールは思いついた名前を口にしたが、紳士は肯定も否定もしなかった。
街灯の向こう側に去って行く姿をいつまでも追って、ラウールは手の届かぬ人の面影を想う。遠い日に出会い、忘れなかった優しい眼差しはそのままに。新たな冒険へ出て、再会など果たせようもないほど失礼をした人に。
ルブランのせいではない、探偵は怪盗の前に姿を現さない。
相棒が言うには、と最初にバニーが言った。
――探偵業を辞めた決心が鈍るから怪盗に会わないのだ。
あるいは本気で、とバニーはさらに言った。
――ショルメスが探偵として能力に長けているなら、勝負する気だったのか。
好きにしろ、と言うのは。
――自分に正体を言うか否かということだった?
答えは聞けない。馬車はもうすぐ行ってしまう。次に会えるのがいつかはわからない。ラウールは走った。鼻の先も見えぬ通りを駆けて、義賊の姿を捜した。
「ムッシュ・ホームズ!」
四輪馬車に乗り込もうとしていた男が振り返り、息を切らして走るラウールに帽子を投げた。地面に落ちたそれを、誰にも踏まれないよう大事に拾う。顔を上げれば、もう馬車は遠くに走り去ってしまった。
ただのシルクハット。画家と世間のイメージが作り上げた鹿打ち帽ではない。ただの帽子だ。
ラウールはそれを持って、微笑んだ。
戦利品の帽子を代わりに被り、霧の街を後にして。
End.
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