怪盗と変態
1
時は1909年、バーネット探偵社の名前でパリの難題を解決した男がいた。
ラウール・ダンドレジーは昨年度に起こった共同作者の問題で、名前を隠して国内にいたのだ。三十半ばを過ぎ、一番の男盛りに悪さをできないとは。新聞に名前があがることを、何よりの楽しみとしていたのだが。
ここ何ヶ月もひっそりとして、ただ毎日書き物をしたり、実験をしたり、暗号を解いたり、はたまた女性の写真を眺めてヴァイオリンでもつまびいたり。あげくには頭を抱えて注射針に震える手を伸ばしたが、カッと思い直して傍らの銃を取った。
――パン。パンパンパン!
SH。VRより曲線が一つ多い分、なかなかやるじゃないかと自分を褒める。先端を吹いて銃をおろした。探偵って職業は暇だなあ。理由がない限り二度とやりたくないなと思ったそのとき、扉は開いた。
「マンダース君! 起きたのかい」ラウールは歓喜の声をあげた。
勢いよく入ってきたのは、旧知の人物だった。あるいは本業のライバル。まあ小物の方だが、正直ラウールともうひとりの義賊は馬が合わない。互いの破天荒な部分が一致しているときだけは大丈夫だったが、それ以外では険悪と言ってもよかった。
共通の敵がいる場合のみにおいて、利害関係で結ばれている。
「おい、今の音はなんだ!」
「何か音がしたかな」
硝煙の吹き上がる壁を眼中に納めず、ラウールは言った。間借りしている身で言いづらかったが、勇気を持って胸を張る。
男は明らかにムッとして、口を閉じた。壁を見る。ヴァイオリンを見る。写真を取り上げて見る。頬骨あたりをちょっと染めて、咳ばらいをした。
「これがクラリス? 美人じゃないか」
「親愛なるバニー。彼女は遠い遠い世界の住人だ。机にある大量の本の山のどこかのね。それはアイリーン・アドラー!」
ちょっと仕置きにベイカー街へ寄って、拝借してきたのだと頷いた。コレと一緒に、とヴァイオリンを持ち上げる。
バニーは名前で呼ぶな気持ち悪いと言い、にこりともせず椅子の後ろから楽器を取り上げた。持ち上げてなめるように見る。
「うん、これは間違いなく天下の――」
「ストラドではないよ。音を聴けばわかるが模造品だ」
弦を渡したが、首だけ回すと相手が受け取らず憮然としているのを知り、にやっと笑った。「先生は大変女性のご趣味がよい。無用心で部屋は汚く、日課の運動に励んでおられた。音楽の知識及びそっち方面に関する聴覚は全くないがね」
「向こうで鳴らしたのか」バニーと呼ばれた男はのけ反った。「気づかれなかった? まさか」
「馬鹿なと思うだろうけども、これが本当の話でね。理由は彼が老齢の域に入ったからではなく、その逆」
「どういう意味だ。それ本当に本人の部屋だったのかい。汚い云々はともかく、運動が趣味なのか。聞いてないぞ」
「女の趣味がよく、高い音を聞き取れないほどの事態だったってことだ」
理解の悪い相手にも優しく接する。バニーがあっ! と叫んで眉を寄せ呻くと、ラウールは笑みを消した。
「アンアン言わせてた。ただし相手はその女性でなく、相棒を自慢の愛棒でね」
「噂は本当だったのか……!」
「上質の楽器など先生には必要ないだろうから、僕が貰ってきてあげたよ」
ラウールが楽器を取り上げて摩ると、模造品なんだろと声が返る。「まあね。でも音はいい」
くるりと立ち上がり椅子に上がって楽器を構えて見せる。バニーは腕を組んで口元を隠した。ラウールはいぶかしげに弦を下ろす。
「なんだ」
「君。ホームズのイメージそっくりじゃないか。よく真似てると思うよ。若いけど」
「お褒めに預かり光栄だね。遠い昔に会ったことがある」
バニーはぎくりとして首を縮めた。言いにくそうに、視線を背ける。「君の……奥さんを」
「撃って殺したとか馬鹿を書いた奴の話はしばらくするな」ラウールは呻いた。「絶縁した。いいか、奴の名前を一言でも」
「モンブラン?」
「――ッ!」
「あ、いや。そこのモンブランが美味しそうだなと」
食べかけのケーキを示す。バニーの目が妙にキラキラしているので、ため息をついてフォークごと渡した。自分の椅子に座らせてやる。
「あれさえなければ……」
「ん? ああ旨い。私も腹をすかせていてね。ごめんよ」
「あの話さえ書かなければ」
「いや、君と探偵の仲を裂いたのはルブランじゃないと思」
ヒッとバニーは息を呑んだ。弦の先が目の前に現れ、後ろから首に当てられる。恐る恐る目線をずらすと、血走ったまなことばっちり合った。怖い。
「わかった。もう二度と言わない」
「じゃないと思。の先から言うのはどうだろう。君の頭が胴体にお別れを告げる時間がわずかに得られる」
「思。うぞ、多分」
「理由は」
口を濁していると、ラウールは優しく甘い笑顔のまま、バニーの首を弦で絞めた。カランとフォーク、栗のかけらまでポロリと落ちる。バニーは死を予感した。
「その――私ではなく。私の相棒が言うには」
「愛棒?」
やめてくれ縁起でもないとバニーは遠くを見た。まったくどいつもこいつも、さも女にモテるように伝記作家に書けと要求する癖に、実際のところ自分の性癖を隠すのに忙しい人間ばかり。
思うに例の私立探偵もどきのほうが正直、あるいは逆なんじゃないかと考える。つまりだ、実は女好きなのを隠すため、そこは徹底して作品に書くなと要求しているとか。
それとも本当に愛棒で相棒の医者を可愛がってるのか? 五十半ばと聞いている。
「う」
想像のグロテスクさにもう堪えられぬと、胃袋がいった。後ろで自分を椅子ごと抱き抱えるようにしている奴の正体は生粋の男色家だが、それを上手にカモフラージュして女を口説く。
その恋慕は主に一人の英国人に向けられていた。
それゆえコスプレもするし、ときには挑戦状、ときには不法侵入で相手の持ち物をくすねてくるのだ。
呼吸が満足にできないせいで、目の前の扉が真っ赤に見えた。もう駄目だ。私は殺されるんだ、とそちらに手を伸ばす。
――扉が開いた。
助かった! あの影は誰だ? こちらに満面の笑みでやってくる、背の高い紳士は。
ラウールがらしくもなくたじろいで、手を緩める。紳士は手袋を脱ぎながら手を挙げた。「やあ、ルパン君。いいよ、ぜひ続けてくれたまえ――彼が何分ほどで死神の手にかかるのか、一緒に見届けようじゃないか!」
ラッフルズ、という言葉を発して、哀れな義賊の相棒は自分を覗きこむキラキラ輝く目を見た。モンブラン以上のお菓子だと言うような眼差しを捉え、意識が途切れる。
探偵の愛用の楽器で、怪盗の手にかかり、自分の相棒に看取られたのだ。
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