怪盗と探偵
英仏境海を渡ってやってきた、探偵の名前を覚えておいでだろうか。我が国の著名な怪盗を悩ませ、肝心なところでは失敗を繰り返したあの紳士を。
頭は弱いが文才に長けた医者のおかげで、有名になった男。彼自ら書いた手記もかつては存在したが。読んでみたらば、ちっとも面白くなかった。おそらく我々のような人間は、ペンを持つことは避けた方がいいのだろう。あまりに非日常な生活を送り続けると、たまには人にも話したくなる。しかし、もし別に記録者がいるならば、彼らにすべてをゆだねた方がいい。冷静さを欠いた妄想に腹を立てたところで――彼ら以上に上手くは書けないのだ。
よって、これは私の個人的な過去の記録であると、正直に言っておこう。近頃もてはやされている、スクリーン上の華麗なエンターテイメント性もない。彼は昨年とうとう墓に入り、私の手に届く人ではなくなってしまった。二人の記録者は、自分の名前も忘れている。
これでようやく、私も語ることができるのだ。
怪盗対探偵の真実の物語を。
私と探偵の出会いは、例のあの日まで遡ることになる。古くからの友人である男が記録した話ではない。彼と知り合ったころは、私は若いながらもとっくに成人していた。すでにある程度知名度や自らの組織も得ていたのだ。
私の言うあの日とは、ホームズが滝壺に落ちたとされる、スイスでのことである。私はまだ子供といってよい年だったが、彼を知っていた。
ホームズの名声は帝国外にも届き、ジョン・H・ワトスンが書いた小説の評判は、世界中に広まっていた。皆がこぞって、探偵の知恵を借りたがった。
ライヘンバッハの事件が起こるまでは。
ワトスン医師は、偽の急患騒ぎに騙されて、相棒の側を離れてしまった。首領を失ったモリアーティ一味は、その後一気に離散に追い込まれたが。
医師をおびき出した少年は見つからなかった。
歳月が流れ、探偵は復活を遂げた。中年になったホームズは、私と最初に対峙したとき、驚きを見せていない。この年になって思うのだ。彼は気づいていたのではないか。
私があのときの少年であることに。
イギリスの活気と正義が世の中を支配していた。私がモリアーティ教授に飼われていた経緯はさておき、まず例の滝で探偵と顔を合わせた一件を語ろう。
私の役目は、ホームズを一人にすること。地元の人間らしく化けて、ワトスンを彼から引き離すことにあった。教授は、ホームズとは一対一で闘いたいと私に言った。
「あの男を騙すことは、大変重要なのだ。それができる子供は限られている」
それをおまえに頼みたい、と頭を撫でられ、教授の思惑にすぐ気づいた。腹心の部下であるモラン大佐に、闇討ちさせる気なのだろう。ずる賢いのと卑怯なことにかけては、二人とも天下一品の男だった。
教授ほど策略に秀でた悪党を、いまだに知らない。
少年である私をスイスに同行させ、ホームズとワトスンの後を追わせた。自分は滝のある山に、大佐と一緒にあらかじめ登る。崖の角度や、傾斜地の滑り具合を確認し。あとは危ない場所に、のこのこやってくる人物さえ待てばよかった。
これが私の真の初仕事であった。
陳腐な罠の内容もさることながら、残念な気持ちにため息が出た。闇の住人を震え上がらせる探偵が、霧の街ではなく明るい世界で死んで行く。スイスの農場で聞いた牛の鳴き声は、私のやる気を失わせるのに充分だった。
馬鹿げた嘘でワトスン医師を騙し、下山に誘うことに集中する。あまりにタイミングがおかしいので、それっぽく見せるには演技の努力もいった。警戒心が少年の私すら寄せ付けないかもしれない、とさまざまな想定をしていた。
いまでも、あの瞬間のことを思い出すのは簡単だ。
事件自体、後にワトスンが書いたような支離滅裂な展開はなかった。あれは雑誌にかかる王族と政界からの圧力のせいで、書き換えられたとしか思えない。使いとして二人に近づき、会話をし、気を逸らし。ふとこちらを見た探偵が、何を感づいたのか一瞬で青ざめた。
行っておいで、と親友に最後の言葉をかける。
ワトスンのポケットに、手帳らしきものを入れるのが見えた。遺書はすでに書かれているとわかり、計画の失敗を教授に伝えようとしたのだが。
私を見つめる優しい灰色の目に、大声を出せなかった。
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