ホームズと探偵都市🍊
3
ポロネーズ探偵の額穴事件から丸三日が経とうとしていた。SP事故調査委員会とスコットランド防衛隊は交互に訪れ、部屋が元通りになる一時間の間に要件を済ました。
防衛隊長は、任を解かれるまであの日の謎の言動については説明できないと言ってきた。隊員と共に再度訪問すると残した彼の言葉を信じるしかない。
彼はナポリタンのバッジを私に託してきた。
私にはそれで充分だった。今では五桁も存在するバッジ裏の会員番号が、私と同じく100番以内だったからだ。
私と探偵には更なる仕事があった。強制の家宅操作を受けたのには理由があり、調査に乗り出すためだ。
私はポロネーズ探偵の脚を持ち上げた。
気力も体力も快復したばかりにも関わらず、私の探偵は人使いが荒い。重みに負けて腰を落とせば、揺れた彼の身体も沈んだ。斜めに傾いで壁に手をつく。
舌打ちしかねんばかりの状況である。霞む視界で見上げれば、意外にもいたわるような眼差しが降りてきた。
内心は読めない。そのまま肩口に全体重がのし掛かるのを感じ、私は目をきつく閉じた。
下剋上の極みの中で、探偵は言った。「いい眺めだ」
「――代われ」
「私はあなたのように頑健に出来ていませんので」
「人工皮膚以外は鋼鉄だろう」
「重量は私のほうが軽いですから。これ以上修理代がかさむと、葬式の予算が半分になります。黙って押し潰されててください」
私の息はどんどん荒くなった。早めに棺桶に収まることになりそうだ。
人生は堪えねばならぬ長い苦行という思いがそうさせているのか、顔を真っ赤にしながらも悪態は途切れない。
徐々に痛みのせいで薄れてくる意識を、皮一枚のプライドが支えていた。
気をまぎらわせるため何か話せと言えば、ポロネーズ探偵は私の上で作業に徹しながら、流暢に語り始めた。
「女神ナポリタンをボロネーゼに改名する話が出ています。いえ、聞き間違いではありません。ボロネーゼはスパゲッティの一種で」
「もういい。早くしろ」
探偵は疲労困憊している私には構わず続けた。
「スパゲッティとは古代文明オイタリアにかつて存在した食材の総称です。なかでもボロネーゼやナポリタンは我が国やオフランスにも広まり」
「もういいと――ナポリタン?」
「そのナポリタンではありませんが。ナポリタンとナポリは関係ありません。ボロネーゼとポロネーズが何も関係ないのと同じように。ナポレオンとナポリタンのナポの発音が全く別物であるように」
私のアイデンティティはどこへ逝ってしまったのか。『ナポレオン』が何なのかさえ知らない私に何がわかるというのか。
また苦痛の息を漏らし始めた私を気遣ってか、探偵は続けた。
「英雄ナポレオンも足音が四分の三拍子だったという言い伝えがあります」
英雄ポロネーズ。軍隊ポロネーズ。謎の音楽。探偵の名前。
私は不意に思い出した。
「そういえば私がこの世に産まれたばかりのとき、お前が教えてくれた。ナポレオン・ボ……ボ……ボロネーゼについて」
探偵は沈黙で応えた。おそらく名前を間違えたのだろう。ナポレオン・ボナセーラだったかもしれない。
ナポリタンは女神。ナポレオンは英雄。ボロネーゼは料理。ポロネーズはポー・ランドの民族舞踏。四分の三拍子の起源は黒猫の足音ではなかったのか。
私は今は亡きポー・ランドについて想いを馳せた。古代ポー・ランド文明の世紀末の予言の中には『レイノルズ』という不吉な言葉が刻まれていたはずだ。
ポー・ランド文明については歪んだ妄想による他愛ない風聞が山ほどある。
例えば壁に埋められた猫。嵐の夜に棺桶から生き返る妹。鏡に映った自分の魂と会話。女の歯ばかり集める倒錯的性愛の持ち主――。
言い換えれば彼らポー・ランド民は数多ある都市伝説の産まれ故郷とも言うべき土地そのもので、そこから派生した宗派の最も代表的なものがSP教だった。
私は体のあちこちに感じる痛みを押しのけ、下がってきた探偵の体を持ち上げた。
まだ大丈夫だ。
「当時は目から光線を発しそうになった場合の、解除暗号があったな。たしか“試験管の色が青なら問題ない。赤なら――”」
「それはおそらく『私』ではありません」
私は黙った。
そうだ。現在のシャーロックは一代目ではない。私はそのむかし、自分が所有していた探偵について思い出した。
『彼』はいわゆる初作品のひとつであり、私が産まれるより以前から存在していたポロネーズ探偵だ。
まだシャクレ・ポロネーズという商標さえない頃に造られたタイプだった。見た目も中身もシャーロックの兄弟とは言えない。話し方も全く違う。無駄機能もない、完璧な機械だった。
私の兄弟、CDのクローンの所有物だ。
私は胸の痛みを無視した。
「遅い……ぞ!」
「私には思索する時間が必要です。脇からごちゃごちゃと言ったり言わさせられたりすれば、それだけ仕事も遅れる」
「思考する機械か。よし待とう。――ほら、三秒待った」
ワットソン犬が上を見上げて一声鳴いた。“彼の仕事を邪魔するな”と言っているのか。“話を聞け”か?
探偵は無言だった。
「シャーロック。地べたに寝そべろうが、私の肺に害悪な機械油入りの煙を吸おうがお前の勝手だ――しかしこの状況で悠長に考えごとは」
「じっとしてください、サー」
探偵がそう言ってから、たっぷり三分はかかったように思う。安煙草の煙もないのにきっかり三分。
規則正しい動きで目当てのモノを上下させ、屈服させられないとなると最後には力づくで中身を出した。モノは急な刺激の反動で跳ねた。
ポロネーズ探偵はしばらく何も言わなかった。私は事が終わったなら早く降りてほしいと切実に願った。彼は自分の仕事の成果に満足そうな息を吐いた。
呼吸機能は人間らしさを表現するためにつけられている。
吸ったり吐いたりするだけのことが、円滑なコミュニケーションを取るのに大きな役割を果たしているのだ。
「思っていたよりもかなり複雑です。おかげで余分に時間がかかりました」
「――早く降りろ!」
探偵の体はヒラリと宙を舞い、私の肩口から床へと着地した。
ワットソン犬は彼の下敷きになりそうなところを回避した。が、次の瞬間には私の影が被さり、慌てて室内から飛び出していった。
探偵は力尽きて膝を折りそうになった私を支え、小机の前まで引っ張って椅子に座らせた。
ポロネーズ探偵が片腕で抱えたブリキの箱を見せる。
「よく見つけたな」
「なに。捜したからですよ」
彼は私の肩を下敷きにしながら、天井の隠し金庫を開錠することに成功したのだ。そしてついに格闘していたモノ――実体化ホログラムの踊る人形たち――を制圧した。
逃げ遅れた一匹のダンシングマンが、彼の上着のポケットから丸い頭をひょっこり出した。
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