ホームズと探偵都市🍊


 無機質な廊下をぐるりと回った端の部屋、探偵はその扉前に居た。

 古代時計で言うところの最北が私の部屋だ。博士の部屋の名称は――。

 ポロネーズ探偵の額の穴はそのままだった。部屋の主は留守のようだ。メイキャップの時間をくれというのを制し、私は腕を組んだ。

 足元から犬の鳴き声。背筋に走る悪寒。居たのか。

「ワットソン。おすわり」

 ポロネーズ探偵は落ちついていた。「防衛隊の犬はよく言うことを聞きます。グッ・ボーイ。お手」

 ワットソン犬は、どう見ても髭の生えた丸顔の生首に見える。耳と短足と振りまくっている尻尾がなければ、犬を思わせるものはない。

「補給しとけ。散歩だ」

「お供してよろしいのですか?」

 私はうなずいた。「許可する。博士を探すのを手伝え」

「マイ・ディア――」

 ポロネーズ探偵は犬に合図した。規制が必要な言葉をつぶやく。ワットソン犬は前肢をあげて立った。そこにあるのは――ああ。やはり説明しなければならないのか。

 ワットソン犬の役割については先に書いたとおりである。彼はコカイン7%の溶液を体内で作り出し、貯蔵できる。

 ポロネーズ探偵はこれを、犬の股間についた取り外し可能な注射器から接種するのだ。注射器とはかつて医療用に作られた、薬液を体内に注ぐための道具である。極めて原始的なものだ。

 彼は袖をまくって腕に注射器をさした。渦巻く短いチューブから液体が……私は直視できずにいた。

「慣れないですね」

「どこがだ。よく慣れてる」

「注射です。私には痛覚もありません」

「頭が痛いんじゃなかったか」

 あんなに太い針を肉体にさすなど正気の沙汰ではない。ちらりと見れば、ワットソン犬はポロネーズ探偵を咎めるように一声鳴いた。

 溶液をとられ過ぎたのか? ワットソン犬自体は消費電力が少ないため太陽電池で動いている。

「医者ではないからな。血なまぐさいことはまるきり駄目だ。おそらくオリジナルが苦手としていたせいだろう」

 ポロネーズ探偵は肩をすくめた。「さあ。どうだか」

 ――どうだか? まあ実のところ私にもわからない。

 遺伝子というのは完全に同一のものであっても、時代や環境によって育ち方が変わっていく。長い歴史のなかでは、アーサー・ナントカ医師がいたかもしれない。

 私の『兄弟』たちは、百人以上この世に生を受けた。そのうちの何名かの好き嫌いが記録され、今はもう亡きオリジナルのCDを理解するのに役立てられている。

 遺伝子の存在としての私は重要だった。オリジナルの遺伝子はもうない。コピーからコピーを取ることは禁止されていた。

 もうじき死ぬ予定だった。私は私で最後なのだ。

 センチメンタルな雰囲気を読み取ったのか、探偵は言った。

「解析操作で知ることもできます。ブリキの箱に保管されている遺品を審査すれば、過去に造られたあなたの人生やオリジナルもおそらく」

「必要ない」

「私のマインドリープを試しては。本社の設備よりは劣りますが一万年程度の過去であれば不可能ではないと――」

 私は唸った。

「出会った兄弟全員が調査拒否申請を申し出たのだ。私ひとりの自意識を満足させるためだけに、彼らの意思を踏みにじる気はない」

 かたくなな態度がポロネーズ探偵のどの回路に響いたのかわからない。彼はそれ以上言わなかった。ワットソン犬を遠くへ追いやる。

 扉をちらりと見て後ろのエレベータに向きなおるが、ボタンを押してから到着までに二十秒はかかった。週末に電気工技師を呼ぶよう、ミセス=ハードソンに言わなくては。

 探偵は例の横顔を晒した。SPディテクティブ社のロゴにもなっているあの顔だ。

 SP社も初作品は完璧な容姿を造った。豊かな髪。スッと筋の通った鼻。控えめな顎のほっそりとしたポロネーズ探偵を。

 この探偵はウケた。ネットワークで探偵と検索すれば、見目麗しいハンサムな探偵が拝めた。これ以外は認められないという者まで現れた。SP宗派の者たちに多かった。

 これに異議を唱えたのが狂信派だ。彼らはSPを頭文字とする探偵の実在を固く信じてはいたが、探偵が神に遣わされた使者であるとは考えていなかった。

 偶像崇拝の議論と暴動はかなりの間続いた。

 もう探偵本体などどうでもよかったのだろう。人間は本質的に争いごとが好きだ。犯罪のない平和な世界にも感情は存在する。歪みの反動でロボット社会は加速した。静観だけがSP社の持ち得る唯一の武器だったが、火に油を注ぐ方法を選んだ。

 彼らもまた暇をもて余していたのだ。

 争いが終結した頃にはSP社も考えを改めた。抑鬱状態の者同士が衝突するとまれに突拍子もないものが生まれる。探偵は私たちもよく知るあの姿に定着した。

 すべての人々が最終形態のシャクレ・ポロネーズに納得したわけではない。しかし今の彼にはできの悪い修復画のような愛嬌があった。強いていうなら遠い昔に絶滅してしまった馬という生き物によく似ている。

 ポロネーズ探偵が組織という巨大な馬車を引きずってきた。車輪の痕は誰も気にしない。

 ――それを消すのが私の役目だった。私たちの。

「サー。地上に着いたら」

 それは鋼鉄の扉が閉まれば一瞬で終わるのだ。ポロネーズ探偵は私の前に立った。同じ身長にも関わらず、横幅は半分しかない。

 いまさら盾になるのか?

「銃弾の刻印からして新機能のデモンストレーションだったのだろう。かばう必要は」

「私もそう考えていました。しかしよく考えてください――彼らはあなたではなく、私の頭を狙ってきました。そして私は避けることもできず脳天をさらしたのです」

「電報のやり取りは兄弟の指示じゃないのか。ビームの洗礼も」

 電報機能は私が特別に誂えさせた内蔵チップのひとつだ。探偵は視線を寄越した。

「前後をはっきり記憶していません。しかし辻褄が合わないのは事実です」

「それはアドベンチュア自体が欠陥機能だからだ。とりあえず額の穴が治るまで注意を怠らず――」

 扉が開けば、注意しようがないことは明白だった。

 棒っきれのような体の間から、さらにたくさんの棒っきれが見える。だだっ広いロビーに収まりきれぬ数百体。

 大量生産されたポロネーズ探偵の横顔が、一斉にこちらを振り返った。

 私のポロネーズ探偵――今日一番の働きをしたのだから、そろそろ首に刻まれた名前を呼んでやってもよかろう。ポロネーズ=シャーロック――は、俊敏な動きでボタンを押した。

 通常のロボットに、経験から学習した反射的な動きができるはずはない。探偵は特別だった。ハッチは閉まり、エレベータは221階へ逆戻りした。

 私は呆然とした。「あれは、なんだ?」

 もちろん一介の機械である彼にわかろうはずも……いや、彼は単なるロボットではない。探偵だ。答えが出せないわけはない。

 だが彼は221階へ戻ると、私の腕を引きずって外へ出た。ハッチが閉まる前にすべてのボタンを両手で押して。

 そして禁断の一言を呟いたのだ。

「家宅捜索です。サー」


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