ホームズと探偵都市🍊
現実に引き戻されたのは微かな電子音だった。
室内が暖かくなるにつれ、私の指の震えは止まった。忘れると決めたのだ――私は自らに言い聞かせた。
私は重くなるばかりの気持ちを切り替えるため、部屋を出た。円周通路の隔壁に手をつく。
ポロネーズ探偵は欠陥ロボットだ。いまさら悩むのは手遅れだった。それは、もうずっと以前からわかっていたことだ。
私は再度身震いした。
「空調が戻りました」ポロネーズ探偵だった。「最近は整備士も機械化されている始末です。腕が良ければ問題ないのですが、燃料が途中で切れて倒れてしまったりするので、監視役も必要ですね。二重に手間がかかって仕方ありません。ところで博士が部屋に来てほしいと――どうかしましたか?」
「いや」
私は額の汗を拭い、うなずいた。「すぐ行こう。ジョンを見かけないが……」
「サー、顔色が普通ではありません。寝室に戻ってください」
「うん――ああ」
強行には慣れっこだ。肩に背負われそれなりに抵抗したつもりが、気づけばベッドに戻された。探偵は物も言わずに出ていった。細身だが頑丈だ。中身は軽量の鉄だから当たり前だ。
それ以上の記憶がおぼろげだ。今度は夢も見なかった。
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私は目を開けると、ため息を吐いた。ベッドはいつも私の安息地だった。ワットソンの舌使いで目覚めることはなかった。望めば下半身の世話までいとわないロボットの唇で目覚めることも。
なぜあんな真似をしたのか。普段の彼とは違うように思えたからだ。動く冷蔵食物庫に一度でもキスをしたことはあるだろうか? 毎日食事をありがとう。おまえが料理を作ってくれるわけではないが、禁断の誘惑の扉、深夜に手を触れる回数が一番多く、体が渇いて仕方がないときに、飢えを満たし癒しとなってくれるからという理由で――。
私の鼻先を長い髭がくすぐった。私がくしゃみで飛び上がると、博士は指でしごいていた髭を戻した。
「なぜいつも私なのだ。君の面倒をみるのは探偵ひとりで充分だろう」
博士は不機嫌そうだった。私は妙に熱い体をよじっていった。「出払っている住民ばかりだからだろうよ……」
「RHは妹の部屋に入り浸りで返事もしない。あのシスコン」
私はその頭文字が誰のことだったか思いだそうとして失敗した。頭があまりにも重い。ナポリタン像で殴られたとしか思えない痛さだ。
「これ以上手間をかけさせるなら221を出ていく。探偵のほうは犬を探しに出ていった」
「あのワットソン犬はジョンという名前だ」
博士は唸った。「――思い出したのか?」
何を、と聞くと黙りこんだ。私はうんざりした。知り合った人間のほとんどがこの調子だ。おそらくオリジナルのCDが原因なのだろう。産まれてすぐのころは我慢できた。しかし限界だ。
「博士。犬の名前はジョン、あるいはポチだ。Shibaが五世紀前に絶滅してから犬の名前はジョンしかない。特別な意味など私は知らん!」
「血管が切れるぞ。そうであるとも、意味はない。もう博士でも教授でもどうでも構わん。熱が下がるまでおとなしく寝ていろ」
彼は足をドンとつき、床から飛び出た木椅子に座った。私を見捨てる気はないようだ。私は謝った。
「すまない……ここ数日の件でさすがに参ってしまった」
「221階の建物内部の気圧・温度・湿度のほとんど全てが狂っていた。体調を崩したのは当然だ。心配なのは君ではなく、ポロネーズ探偵だ」博士は続けた。「別の部屋とはいえ同室で、主人の体調不良がわからんとは」
私は返事を濁して寝返りをうった。隣の部屋にではない。隣にいたのだ。視覚サーモグラフィで熱があることに気づいたとしても、生理的反応として誤認したのかもしれない。私は博士に対し、赤い耳についても熱のせいだと考えてくれるように祈った。
「額の修理代もまだもらってない」博士はポツリと言った。「探偵の中身を一度開いたほうが賢明だろう。話しておきたまえ」
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