Birthday
コートを着た上からハドスン夫人にマフラーを巻かれた。外は寒いからお気をつけて、といわれた。何がどうなっているのだ。
「ワトスン。時間稼ぎの問題集も面白かったが、まだ全部解け終わってない」
「なんだ、気づいてたのかい」
ワトスンはステッキを手に取り、くるりと回した。「帰ってゆっくり楽しむといい。編集者に頼んで製本までしてもらったんだ」
「どこへ連れていく気なんだい?」
ワトスンは扉を開け、振り返って笑った。「きみの得意技だろう。推理するんだよ!」
外はやけに人通りが少なく、ひっそりと静まり返っていた。街灯の明かり以外に存在を主張するものがない。酔っ払いの一人もいないとは、おかしい。
「まだ寝るには早過ぎる時間だろう。ロンドン市民もずいぶん行儀がよくなったな」
「雪が溶けきってないからだ。みんなこの寒さに家で震えているのさ」
「ワトスン。観察力だけが取り柄の僕だ。納得させるにはもっとましな理由が欲しい」
「――変だと考える理由を聴こうじゃないか」
軽く辺りを見渡す。いつもと違うベイカー街の道には、路地裏の物乞いすら見当たらない。本に夢中で気づかなかった。なぜ今日に限ってこんなに静かなのだ?
「建物の明かりがみんな消えている。ヤードの巡回も警備もいない。道楽息子帰宅のための馬車とも鉢合わせなかった」
眉を上げて続けていった。
「一番気になるのは、きみの落ち着きのなさだ。そんなに目線をさ迷わせちゃ、道を歩いてる猫だっておかしいと思う」
「やれやれ、僕は犯罪には向いてないようだね」
苦笑をこぼすワトスンに、気持ちが落ち着かなくなった。最大の犯罪組織に命を狙われたときと同じ、嫌な予感が背筋を走ったのだ。
いつも連れ立って歩いたワトスンが、頼みを聴いてスイスまで一緒に来てくれたのだが。心強かったにもかかわらず、最後に彼を逃がした。
もし狙われるなら、ひとりだけでいい。
「怪盗でも現れたかい。ベイカー街中の明かりを盗んでしまうような、奇特な奴が」
「誰だって? ……ああ! 考えすぎだよ。それにこの現象は、ベイカー街だけではない。おそらくロンドン中だ」
こっちはますます身構えて、ひと気のない背後を気にする。声をひそめていった。
「――女王の一周忌として喪に服す日だったかい」
「まだ二週間先だよ」
ワトスンが手を取り、自分の腕に組ませた。身長差のせいで首元に息がかかる。その温かさに緊張を解いた。
「いつも通りの散歩さ、ホームズ」
「運動不足を解消するには、足元が危ない。どこまで歩くつもりだい」
ほら、とワトスンが国会議事堂の時計台を指さした。
「あそこだ。遠くて駄目だな。もう少し近づかないと」懐中時計をガス燈の薄明かりで見た。「日付が変わる。急ごう」
歩く速度を速め目的の場所に近づくにつれて、変化に気づいた。馬のいななきがするのだ。馬車が大量に止まり、立ち往生していた。そのうえ、ひとだかりができている。
男、女、子供に年寄り。帽子とステッキとドレスの群れ。それぞれが蝋燭を手にして、一帯が昼のように明るい。上流から下級まで、何百の人間が一堂に集まっている。墓の中にいる女王も起こしそうな騒がしさだ。
孤児の子供と目が合った。
「Sherlock Holmes!」
そのあとの喧騒は先程の比ではない。沸き起こる拍手に包まれ、皆がこちらを見て、口々に何かを叫んだ。お帰りなさい、誕生日おめでとう、逢えてよかった、握手を!
目の前にいる人間の職業がわからなくなった。入れ代わり立ち代わり、揉みくちゃにされる。
掌の感触だけで、建築技師、紡ぎ職人、タイプ打ちにどぶさらいまで数え、空気を切り裂く笛の音に顔を上げた。イタチのような顔をしたあの小男は、警察関係者に違いない。現に大量の警官を引き連れている。
人波を掻き分けた彼と握手し、息を吐いた。
「やあ、レストレード。誰かが頬にキスをしてきた。口紅はついてないかい?」
「それはないでしょうな、彼には顎髭があったので。タイが曲がってますよ、ドクター」
「ありがとう。しかし、すごいなあ! タイムズの掲示板にしか出さなかったのだがね」
警官の指示によって、人々が道を開ける。時計台まで誘導されながら、誰かの蝋燭で焼け焦げた外套をさすった。
とんでもない目にあったのに、どうして僕は笑っているんだ?
ワトスンが歩きながら説明してくれる。手作り本の印刷と共に、今朝の新聞をダミーで作り、こっちに渡したのだと。
本物には、『帰還シャーロック・ホームズの誕生日を祝う。本日零時ビッグ・ベンにて蝋燭持参』と記載してあるらしい。
一杯食わされた。
「なぜ。なぜ皆、今頃になって僕の帰還を祝うんだい? チベットにもライヘンバッハにも戻ってないが」
呆然としながら問いかけると、ワトスンは真剣な顔でいった。
「こういう形の謝罪も必要だ。きみを愛し、尊敬し、心配をかけて、騙した人々に対してね」
僕も含め、とささやかれる。
なんと返したらいいか迷った。抑えられながらも近づこうとする人々を見て、唇を持ち上げた。「彼らは僕を知らない。推理の機械だと、信じて疑ってないさ」
ワトスンは遠巻きになった観衆を見つめ、こちらに目を向けた。 その顔に笑みはない。
「この街から明かりを盗むなんて、怪盗も滝壺の幽霊も女王にさえできないことだが。きみはしてのけた」
「――」
「きみが死んだと発表されたその日、ロンドン中のひとが暗闇で泣いていたよ」コートの中から蝋燭を取り出し、手渡してくる。「今夜は月もかすむほどに明るい。その理由は、簡単な推理で解ける」
ちょっとだけ躊躇って、受け取る。優しい笑みが光に照らされ。還ってよかったと。
生きて霧の街に戻れて、よかったと感じた。
時計台からかなり離れていたが、レストレードが警官たちに指示を出す。零時の鐘まで五分となかった。
咳ばらいをして、ワトスンの気を引く。
「失言だった。さっきの、その」
「もういいさ」
再度咳ばらいして頷く。ごまかすためだけに時計台を見た。
いったい、なにが始まるんだ?
私語も徐々に消え、馬の荒い息遣いと、それを抑える御者のささやきだけが聞こえる。
視線が時計に集まった。
「ワトスン――」
「ああ、いっておくよ。誕生日おめでとう、ホームズ! 今日はまだ、きみの」
あ、と誰かのつぶやきを最後に、鐘が零時の音を立てた。
一拍おいて、真っ暗だった時計の裏から、彩りの鮮やかな光がもれていく。ひときわ大きな歓声があがり、蝋燭の火が煙りになり始めた。
次々に消される蝋燭を眺めて、レストレードが慌てて近くの受け皿を取った。指先を舐めて火を摘みかけ、思い直したように首を振る。吹き消そうとする直前に、こちらを見て笑った。
「蝋燭の数だけ長生きしてくださいよ」
闇が深くなるたびに、時計台の輝きは増していき。ひとつ、ふたつと数えるうちに、長い時間をかけて照明全部が燈った。
Happy Birthday Holmes.
End.
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