まだらの棒


 まっすぐベイカー街に戻りたいのだが、やり残したことがあった。

 路地を曲がると、肌をさらけ出した若い女が立っている。「あんた、お医者?」

 無言で近づき私に触れて、ややいびつな形に盛り上がる帽子を見た。

「聴診器が入っているんだ。よくわかったね、レディ」

 奇抜だが煤けた生地に、剥き出しの肩。裾を持ち上げて太ももを見せた。夜の女は苦手だ。

「ね。そこの壁でさ」押し付けてヤってもいいな、と耳元でささやく。股間に触れようと伸ばした手をつかんだ。

 革の手袋を通してもわかるほど冷たい。

「ここらは金回りのいい男が少ない。よそのほうがもっと稼げるだろう」

「あっためて。お金はいいよ、今日はたくさん相手したから。困ってないんだ」

 暗がりで気づかなかったが、よく見ると赤毛だ。そばかすがある。おそらく十代だろう。

「出歩いては駄目だ。できれば帰りなさい」

 上着のポケットから出した財布を、そのまま渡した。

 女はポカンと私を見つめ、そろそろと中身を確認してハッと息を呑む。「これじゃ貰いすぎだよ」

 返事をせずに身を翻した。

 診療所は煌々としたガス灯に照らされ、部屋の中を歩く男の姿が丸見えだった。

 呼び鈴で扉を叩く。バタバタと階段を駆け降りる音が聴こえた。すぐに開きかけた扉を、足で押さえて振り返る。誰もいないことを確認して隙間から入り、鍵をかけた。

「なにをしてたんだ。遅いですよ、ドクトル」

 個性的な顔の男が、慌てたそぶりで両手を振り上げる。私はため息を吐いた。

「明かりをつける馬鹿がいるかね。私はここにいないことになってるんだ」

「いますぐ消しましょう」

 もういい、二階で話すぞとコートを脱いだ。手伝おうとする気配に、「触るな」と釘をさす。

 男は気にする風でもなく笑い、階段を登りかける。手摺りに腕をかけ、こちらを見おろした。

「そうだ。赤毛の子供はまだいましたか」

「――彼女はやめておけ。顔をはっきり見られてる」

 優しいですねえ、と語尾を伸ばした。「逃さず殺せば大丈夫でしょう。死人に口なしだ」

「通りに聞こえるだろう。黙れ」

「いまなら――まだいるかも……」

 専門的に秀でて頭のいい奴というのは、常識がまったくない。ホームズがいい例だ。階段を登ったり降りたりしている、この男ほどではないが。

 誰かが馬のように調教してやらなくては、能力を発揮するまえに社会では生きられなくなる。

「名刺の入った財布をあの娘にすられたんだ」

「本当ですか? しかし」

「彼女が被害者になったら疑われるのは私だ。レストレードにそれらしく匂わせてしまった」

 にらみつけると沈黙する。それでもまだ開きかける口を縫いつけようか、と想像してやめた。

 私に過虐趣味はない。

「きみは数日したら国へ帰り、二度とロンドンに足を踏み入れるな。そうすれば事は自然に納まる」

 いやだなあ、これからですよと舌なめずりする。「本当は若い女性が好みなんだ、僕は」

 私はあまりの気持ち悪さに吐き気を覚えた。男はどこか遠くを見つめながらいい募る。

「心理学を適用して、身寄りのない年増の娼婦をターゲットに絞りましたがね。若い子を選んだとたん、貴方に見つかってしまった」僕はただ、と続ける。「異常者の心理が知りたくて、純粋に学問のためにアレをしてきたんです。死んだのは不可抗力というやつだ」

 議論をするつもりもない。この男とは利害関係があるだけだ。

 私は男の息を間近に受けた。ホームズとの違いを見つけるのに苦労する。血走った目。土気色の頬。

 彼らはどちらも、あの薬物の虜だ。

「ドクトル。心配はいりません。警視庁側にタネを仕込んできましたのでね」

 まさか、と思い当たるふしに唾を飲み込む。階段に足をかけ、離れようとする奴の胸倉を引き寄せた。「なにをしたんだ。正直にいえ」

 抵抗することもせず、首をかしげて私を見る。

「『ユダヤ人は理由もなく責められる人たちなのではない』と壁に書いただけですよ」

 犯人は自分だと宣伝しているようなものだ。

 息を深く吸った。逸らしたくて仕方ない顔をより近づける。聴かなくてはならない。

「管轄外のスコットランド・ヤードが動いてる。きみの仕業か」

「警部を落としたんですか? よかったじゃないですか。催眠法を使わなくても、ホームズはコカインをやめる」

 ジグムント、と声を張り上げた。

「30日の犯行はシティで行っただろう。ロンドン市警察だけが情報を握ってたはずだ」

「なんの問題が?」

 締め上げる手に力を込める。さすがに苦しいのか私の腕をたたいた。

「ドクトル、よせ。路上でメスを持つ楽しみを奪ったのは貴方だ。そこまでして僕を匿った理由は」

 仕事をして欲しいからでしょう、といった。

 五人目の殺人を目撃したのは偶然だった。男の影が女の死体を切り刻む姿に、戦場での自分を思い出し。身震いを抑えきれず。

 こちらに気づいてメスを振り回すのを、逆に拘束して問い詰めた。なんの目的があってこんな真似をするのか、最初はただ知りたかっただけだ。

 その正体が誰なのかを知ると、死刑にさせてはならないと思った。

 彼ならホームズを薬から完全に離脱させることができるかもしれないからだ。

「娼婦の代わりに、コカイン中毒者の研究材料を得たのだ。文句はないはずだろう」

「まあ――麻薬の依存性から逃れたいのは僕も一緒ですからね」目を空中にさ迷わせて、低くつぶやいた。「だが、あれはほんのひと時しか効果がない。僕がドイツに戻ったら、事件も催眠も貴方だけでは無理だ」

 ちゃんといった通りにしましたか、と急に医者の顔を見せる。

「ショックを与えて気を逸らし油断させ、寝ているすきに批判能力を除外させる方法。意識を潜在意識レベルに誘導する技術。これは信頼関係がないと効きませんし、暗示を受けやすい変性意識状態で……」

「いいか。私に対して二度と学術講義はするな」

 掴んだ服を離すと、男は上着をいじくった。

「わかっていますよ。シャーロック・ホームズの中毒さえ治せればいいんでしょう」

「きみは自分の友人を催眠療法で殺している。彼も同じ目に合わせたら、切り裂きジャックだとばらすぞ」

 きききと歯を軋ませる。

「そんなことをすれば、あんたも刑務所だ。ワトスン先生」

 私と同類だと。利用できると考えて手を組んだ。

 長年の計画を完成させ、大掛かりで永遠に解けない謎を創ってしまえば、ホームズはコカインなど必要しなくなる。

 唯一の誤算は、この男のほうが何倍も狂人だったことだ。

 相棒の伝記作家が殺人鬼を飼っていたんだ。ゴシップ記事の一面を飾れるな」

 名探偵の名前を地に落としましょうか?

 私が身震いしたのを逃さず、男は声を上げて笑った。私の胸元をトンと突く。

「ドクトル・フロイトの講義をまだ受ける気はありますかね」


 今度は私が脅される番だった。


End.
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