まだらの棒
警視庁の扉を開いて入って来た医師は、挨拶もそこそこに椅子を占領した。
ひどく疲れている様子だ。ことの次第と結果の両方を聞いて、私は質問せずにはおれなかった。「それで、最後まで美味しくいただいたのですか? ドクター」
まさか、と人のよさそうな顔をして彼は笑う。
一見人畜無害な風を装っているが、これが一皮剥けば、相当サディスティックな男なのだ。
「ホームズさんにしては、あっさり騙されたもんですな」
探偵も今回の件でようやく気づいただろう。何年も同居している男の本性を見ぬけないでいたのだ。
意外なところで鈍感な男だった。
いや、相手が悪かったのかもしれないと思い直す。この医師は頭のよさを隠しつつ、相棒をいい気にさせて操ってきたのだ。
ホームズは今頃ベイカー街の部屋でおとなしくしているのだろうか。それこそ彼の思うツボなのだが。
「どんな小細工を使ったのか聴かせていただいても?」
「身体の自由だけ奪う薬はそう多くない。自分で調べてくれ」
葉巻はいるかね、と携帯している箱を手渡された。自分も一本とる。釈然としない。むしろそんな便利なものがあるなら、私だとて使いたい。
ドクター・ワトスンは好奇心のかたまりと化した私を見て、苦笑した。
「併用して安全な薬などないよ。たいていは身体に無理が出る。コカインの壜に栄養剤、ポットに睡眠剤を仕込んだだけさ」
事件がないから、あの細い腹がたぷたぷになるまで煽っていたよ、という。
薬品に関して詳しくはないが、睡眠薬は大量に服用すると死ぬんじゃないか、と疑問に思った。
くちを切った葉巻に火をつけ、マッチを暖炉に投げ込む。
「大体彼は鋭いからね。本調子なら、私が薬の箱に触ったことを簡単に見破ったはずなんだ。あの様子ではこれ以上待てないだろうな」
「やれやれ。またその話ですか。ホームズさんに回してあげられる事件なんて今は……」
レストレード君、と。
「僕は気の長いほうではないよ」
ゾクリとした。口元の微笑みは髭があってもわかるほどなのだが、目が笑っていない。
「わ、わかりました。指輪が盗まれたとか、条約文書を無くしたとかそんなのでも?」
「失せ物捜しをさせるな。そんなものじゃ数日で解決だ。引き伸ばすのには限界があるよ」
椅子の端をトントンと叩く。灰が指先の葉巻から絨毯に落ちた。
悪い習慣ばかりをホームズから受けている。物ぐさな仕草にため息をつきそうになり、咳ばらいでごまかした。
ワトスンは暖炉の火花に耳を澄ませ、間をとって呟いた。
「もっと話題になるものがいい。華やかで、難解なやつだ」
切り裂きジャックは解決したかね、と。
「――冗談はやめてくれ。あんなのまわせられますか!」思いっきり吸い込んでしまった煙りに、激しく噎せた。「たしかにホームズさんは観察力だけは人並はずれてますがね。推理となると、一般市民程度だ」
「暴言も大概にしたまえ、レストレード」
「いや、余計なことに首を突っ込みたがる点でいえば、探偵より三流記者に向いているんですよ!あの人は」
「きみ。大概にしたまえと僕はいった」
表情ひとつで、黙ってしまう。恐持ての犯罪者など見慣れているのだが。
ワトスンは立ち上がって、窓から通りを眺めた。その姿は彼の描いたホームズ像にそっくりだ。
三度同じことを繰り返させると、どうなるんだ?
なぜホームズに執着するのだろう。出会ったときから疑問だった。
自身の著作で、自らを鈍感な男として描いたジョン・H・ワトスン。あの小説の人物は、私から見ると別人だ。
親友の推理に開いた穴をつくろい、捜査に必要な情報をさりげなく提示できる人間。それが現実のワトスンであり、恐ろしいほど頭の切れる男だった。
物書きでなくても、人は自分を実際より良く表現したがるものではないのか。知識の宝庫である書物の中では特に。
ワトスンという男は、なにを考えてシャーロック・ホームズの補佐をしているのだろう?
自分の存在をことさら歪めて使い、友人の名を持ち上げるなど、理解できなかった。
私の視線をどう解釈したのか、医師は葉巻をくわえたまま笑う。
「心配しなくても、小説にはしないよ。彼にジャックを捕まえさせるのが目的ではないのだ」
何かに夢中でいさせておきたい。コカインを続けるには、年をとり始めている、といった。
私は慎重に考えて答えた。「万が一、ホームズさんが殺されでもしたらどうする気なんです」
それはないだろう、とやけに自信たっぷりにいった。
「初めてあの光景を見たときから計画してた。三十を越えてようやく実行に移せる。きみも協力してくれるしね」
させられている、といったほうが正しいのだが。私はある可能性に背筋を凍らせ、訂正する余裕をなくした。
あり得ぬことではない。
――この医者がジャック・ザ・リッパーなのではないか?
退屈に堪えられない相棒のため、殺人を犯している。謎を自給自足で創っているのだ。
ワトスンの目的は、ホームズに麻薬をやめさせることだったはずだ。少なくとも私はそう聴いた。多少なりとも時間を稼ぐから、なんらかの事件をよこせと。しかし。
先程から話を聴いていると、初めからジャックの謎を狙っていたようなのだ。
「ホームズはあの習慣にしばらく手を出さなかった」
ワトスンは、私の気持ちに呼応するかのように近づいた。
動けない。
「絶望的な気分になったのは、きみたちヤードがあの殺人鬼について彼に協力を仰がないからだ。ホームズに正式に依頼して、多少の情報を与えるんだよ」
そうすれば、と目を合わせる。
「そうすれば、死体はあと少しで済むだろう」
密室で空気が重くなった。縮んだ葉巻の煙りで、ワトスンの顔が見えにくくなる。
問い詰めて、逮捕するか?それとも知らないふりを通すか。私の迷いを見透かして、ワトスンが手を上着のポケットにいれる。
ヒッと声が洩れた。
取り出した年代ものの懐中時計をパチリと開き、何食わぬ顔でささやく。「警部、私は暇ではないんだ。答えを急いでる」
上着のポケットにメスが入ってなかったことを、神に感謝した。決め手になったのは次の言葉だ。
「検死解剖の義務を怠った死体について、証言台に立ってあげよう。どうかな?」
私はあっさり悪魔の誘惑に負けた。