まだらの棒


「ホームズ、なにをしているんだ?」

 習慣になっているコカイン注射を見咎められて、私は首をすくませた。出会って共に暮らして、まだ互いの私生活に干渉せず、大人しくしていたころの出来事だ。

 私は最初にその悪癖が見つかったとき、恥ずかしさもなにも感じなかった。医者である男には礼儀を尽くして、見えないところでしてきた儀式だ。

 いまさらばれてしまったところで、彼にはどうすることもできないだろう。

 実際そのあとワトスンは、非難の眼差しと再三にわたる説教の嵐を繰り出してはきたが、強制的に止めさせるような真似はしてこなかった。

 安堵の息を吐く。これでとりあえず同居人の面目と大儀をかわすことに成功したわけだ。

 共通の友人であるスタンフォードに紹介を受けたとき、最も躊躇ったのはワトスンが医者だという事実にあった。予想どおり持ち前の正義感を振りかざして、彼は私の楽しみを奪おうと狙いをつけている。

 成功に至ったことは、数年経ったいまでもない。

 シャツの腕を肘まで捲り上げた。針が皮膚を破り、肉に刺さるぷつりという音。

 つかの間の享楽に浸る。

 これがないことには、事件のない退屈極まりない日常など、耐えることができないのだ。

「ホームズ」

 薬の影響で霞む視界にワトスンが映る。周囲が鮮明な色に変わるまで、たいした時間はかからなかった。

「――どういうわけだ、ワトスン」

 力を入れてベッドから起き上がろうとしたが、正気に戻った頭と裏腹に、体は動かない。私は近づくワトスンを呆然と見るしかなかった。

「きみの好んで使用しているコカイン7パーセント溶液だが、水増しさせてもらったよ。半分くらいの薬液しかその小壜には入ってない」ワトスンは悲しげな目で、私を眺めた。「だが、今の君は小指一本自力では動かせないはずだ。しばらくはね」

 ベッドに腰を沈ませて、注射していたそのままの体勢から、たしかに体は痺れを伴い動くことがない。寒いと思っても目前にあるジャケットが取れず、かろうじて響いていた声帯も、ほんの数分で固まってしまった。

 ワトスンは傍らに立って、私が完全に彫像と化すまでただ待っている。やがて絨毯に膝をつき、目線がかち合えばひとつ頷いた。「手荒な真似を許してほしいんだが。ホームズ、僕と取引をしよう」

 私は唇を震わせて、その優しい声を待った。

 いまさらなにを言うのだろう。

「僕は医者として、きみのたぐいまれな頭脳を蝕み、溶かしてしまう薬を憎む。モルヒネに到っては」

 声をつまらせる。コカインの比ではない依存性だ、と遠くを見た。

「戦場で足をやられたとき、自分で打ったからわかる」

 いま体に入れてしまった薬は違うのか? 肉体への悪影響など、何年後にわかると思うのだ。

 刺激物の中毒性は理解していたが、脳を彩るあの興奮が欲しいのだ。ワトスンに会うよりずっと以前からの嗜好品だった。

 どんな好条件を提示されようと、受け入れられない。ワトスンがベッドに腰掛け、私と目を合わせた。

「軍医時代に学んだことを、きみにすべて与えよう。その快楽を取るか、麻薬を使うかはきみ次第だよ」

 夜伽は得意だ、三大陸の女と関係を持った話はしたかね、と。驚愕に目を見開いた。ある事柄が浮かび上がる。

 自由と悦楽を制御された兵士たちの遊びが。

 イギリス海兵隊には特に蔓延した行為のせいで、昨今では乱れた規律を法が厳しく取り締まっている。誠実さと従順だけでできたような男に、犯されるというのか。それを自分が望むと、そうされてまだ、同居の道を私が選ぶと考えられるのか。

 はっとしたときには遅かった。痩せ細った肉体が、私を組み敷いている。器用に自らのタイを外し、上着を床にほおり投げた。

「ホームズ」

 覚悟はいいかい、と耳元に囁いた響きに、背筋を電流が走る。ベストもシャツも剥ぎ取られ、身体に何度もくちづけが降る。

 他人の唇の熱さに、感じたことのない嫌悪感を覚えた。

「ワト……スン!」

 徐々に効果のゆるんできた薬の拘束に、ようやく発した声は。自分のものだと思えないくらい、かすれて高い音だった。

 誘っているかのようだ。

 羞恥と屈辱で顔が赤らみ、男の行為をただ下から見る。

「う――あっ」

 喉元の皮膚を吸い上げられ、自然と喘いだ。自分より明るい色の髪と綺麗に揃えた髭が、肌をくすぐる。

 親指が片方の乳首を撫でた。円を書いてこね回し。硬く勃ち、舌先で圧されるとジンとした刺激があった。

「よせ」

 制止するために伸ばしかけた手が力つきて、ワトスンの肩を掠める。片方を唇でなぶられ、予告なしに股間を掴まれた。

 段々と愛撫の速度が速まり、やがて刺激に反応を示し始めたソレが、圧迫感に痛みを訴える。

「ワトスン、なんて、ことを……」

「望んでいただろう」


 欲していたろう? と震える私の身体を撫で下ろし。首をのけ反らせて、抵抗を試みた。まだぼんやりした足の感覚さえ戻れば、蹴りあげることをためらいはしないのだが。

 手足はそれ以上力を込められない。

「ああ、やめろ。んッ! ――さ、触るな」

「よく聞こえないな。いつものきみでは考えられない姿だ。犯人を追いつめたり、僕を言い負かしたりするのは楽しいかい」

 堪えきれなくなり存在を主張しているズボンのボタンを、ワトスンがすべて外した。下着の上から揉みほぐされる。

 ワトスンの体が密着し、同じように興奮している硬い下腹部を押しつけられた。

 間近に照らされた彼の目は、狂おしいほどの欲望に支配され、潤んで見える。

「僕にも楽しむ権利はある」

「……!」

 深い接吻。

 一切応えては駄目だと理性が警告するのに、咥内の奥深くを探られ、鼻で息をすると我慢できなくなった。

 欲求が、無理矢理行為におよばれている嫌悪を、燃やしつくす。ワトスンはなぜ知っていたのだろうか。


 どれだけ否定しても、私は彼に暗い欲望を抱えていたのだ。


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