ホームズの旅立ち🍊
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列車の剥げた壁を舐めるように、蒸気が噴き上げていた。
ホームズはハドスン夫人をなだめ、集めた警官たちに情報を話した。
物語の中では間違ってもしないことだ。シャーロック・ホームズは万能の推理機械で、何もかも一人で調べ、解決してしまう。相棒の手助けはほぼ無用で、警察を意味嫌うことがあっても初めから協力を要請することはほとんどない。
しかし残念なことに、ホームズも私もただの人間だった。情報を得るには足を使うしかない。
几帳面な字で流れるように書かれた手元の日記は、怨み言の羅列ではなく、ある四人の人物たちに関する詳細な記述だった。
書かれた人間が確実に死んでいる。ホームズが持ち前の勘のよさを発揮したことと、手口が同じであることのほかは連続殺人に結びつける証拠もなかった。
最後のページには写真が貼られており、顔の部分は全員切り抜かれていた。居場所はおろか、二つの事件がの犯人が同一かさえまだわからない。
ホームズは昨日の朝刊で、身元不明の死体が発見されたことを知った。写真のうちの一人が死亡者だろうと目星をつけたのだ。
彼は婚約者に日記帳の入手経路を聞きにいき、私を解剖室へ送り出した。
「監察医の司法解剖が済んだら、私はもう一度死体の元へもどる。この日記帳が根源だとはどうしても信じられん」
ホームズ自身の社会的信用はまだらの棒のしっぽほどもなかったが、私の社会的知名度は着実に増していた。医学部の入学式や追悼文、果ては間違った相手との結婚にまつわる講演を各地で行ったためだ。
たとえばだっこちゃんとか。
欲望という名のバッジが産み出した恐ろしい産物は、今後の出産率を大きく低下させるのに一躍買っていた。
ホームズもはじめのうちこそ探偵の仕事も受けてはいたが、その半分は調査表をテムズ川に投げ捨てることで自己解決してしまっていた。だから私の力を必要としているのだ。
ホームズはため息で応えた。
「僕も同じ気持ちだ。写真の男たちが誰かはわからないが、ジョーンズ刑事と警官たちが僕の作った犯罪者記録の資料を見直して、前科ものの中から特に怪しい者を取り調べてもらう手はずだ」
「古代文字の解読班が来ていた気がするが」
「今年はあまりにも暇だったからラテン語を勉強していた。さらには例の島国の言語がかなり難解で、体得するには日常的に使うしかなかったのだ――ちなみに僕の日記は一見ワトソン君がいかに可愛い男かについて論文形式で書かれているが、実際は立て読み形式になっている。誰も読もうとしないが」
知っていた。机にこれみよがしに広げられたワトソン君日記とも呼べる代物は、探偵の趣味であるパッチワークに彩られ、本棚にもどしてもかなりの異彩を放っていたからだ。
モリアーティの日記帳とは対照的である。書いた本人の人格の現れが手帖なり日記なり創作なのだ。私はホームズの横におかれた鞄を見てうなった。
「こんなものを医療鞄にいれておくのは縁起が悪い。大体どうして調査に行くのに持ち歩く必要があるんだ。ホームズ」
「開発したワトソン君フィギュアを魔除けに入れてある。マダム・タッソーのおかげで抱き枕以外にもう一儲けするのだ。つまり旅先でもお尻に使用可能な簡易の……!」
「もう喋るな。ついてきたことを激しく後悔している」
「せめてこの四人の繋がりがわかれば――」ホームズは聞いていなかった。「執着心を感じられる日記の全文から推察するに、残りの二人が殺されるのも時間の問題だ。まずは写真の撮られた場所を探さなければ」
「嫌な予感がするな。不運の前触れだ」
私の勘が当たっていたことは直にわかった。列車は動き出した。