ホームズの旅立ち🍊
翌朝下宿を訪ねると、警察の一行が辻馬車で来ていた。
女家主の登場だ。私は息を呑んで見守った。ホームズは珍しく正装で通りに出ていたが、彼女と激しく口論していた。遠巻きにしている警官や野次馬をかき分け、私はホームズではなく馴染みの警官に近づいた。
「何があった」
「我々もいま到着したばかりでして」
ホームズは私の存在にいち早く気づいた。しかし目配せで向こうへ行けと合図を送ってくる。そのやり方があまりにも下手なせいで、ハドスン夫人が気がついた。
「先生、お待ちしていましたわ。気が触れたとしか――」
彼女の手が私に届く前に、ホームズの腕が届いた。彼は警官にも構わず颯爽と下宿に私を押し込み、野次馬に手を振って叫んだ。「彼女を五分締め出したら1ポンドだ!」
言葉が終わるや否や、喧騒は扉の向こうに消えた。私は焦った。「曲がりなりにも女性になんてことを」
「君の上着を駄目にしたのは彼女だ。度があってない老眼鏡のせいにした」
「……五分経ったら助けるぞ」
必要ない、ほっときたまえと階段を上がる。私はホームズを追いかけた。
部屋に入ると私の脱いだ外套を取り、私の胸に手を当てた。
「ドイル君」
見つめてくる熱い視線が痛い。
胸を撫でられるに及んで、忍耐力も限界を越えた。
「――三十秒以上やったら昨日のやり取りを繰り返すことになるぞ、ホームズ」
「丸腰か確認しただけだ。よし、ナイフはないな。こっちに来てくれ。確認したいことがある」
私は部屋の奥でぐちゃぐちゃに重なり合った資料の束に目をとめた。ホームズは窓際から下を覗き、カーテンを閉めた。
「まずいぞ、ペチコートが見えた。明日の僕のお葬式にはコカインを大量に持ってきてくれるかね」
「心配しなくても君の霊を呼ぶことは絶対しない。安心して永久に墓の下でワトソン君と過ごせ」
言ってから机にぶちまけられた数多ある資料のなかで、とりわけ見覚えのある見出しを見つけてしまった。
「『哀れなシャーロック・ホームズ。救いようのない狂信者――』か」
討論会の出来は上々だったが、その後にストランドに書いた妖精の記事が私の評判をまた落とした。私の名前で書かれる探偵の名前もだ。
ホームズは目当てのものを書類の山から探しながらいった。「合理主義者のアホどもはほっときたまえ。ああ、君もかつてはそうだったっけね」
「もっと嫌みったらしく言えばいい。君にはその権利がある」
「反発に負けず逃げも隠れもせず、信念を貫き通している男が狂信者なものか。あるいはこれも」
記事の一枚を顔の前にかかげる。
「僕が疲れている友人、主人、父親、兄弟にまで追い打ちをかけるような人間に思われている証拠さ」
批判的論文の最後には名探偵のサインがあった。正々堂々と闘いを挑みにくれば相手をしてやるが、卑怯きわまりない手段だ。報いられることのない犠牲的な探求を続け、今もなお時代の流れに逆らい続けている。
その孤独の穴埋めをいったいどこでなせばいいのか――。
ホームズはさっと紙を背中に隠し、取ろうとした私の手首を掴んでおろした。
「彼らは『シャーロック・ホームズ』という名の玩具を奪われた気分になって、慎みを忘れてしまった。牧師の語る名探偵の物語を楽しんでいた文盲の子供に、本を突きつけて正しいものを読めと迫る連中だ。どちらがより哀れむべき者か君にはわかるだろう」
辛辣な口調のなかに、いたわりが透けている。まっすぐ私を見つめる目にうなずいた。
「その牧師は懐中時計にソブリン金貨をつけているヤツだな。あるいは無二の相棒の文章に対し文学的すぎると文句をつけたやつかもしれん」
ホームズはうめいた。そのくだりは現実でも行われたからだ。彼は自分で書く段になって初めてその考えを改めたのだが。
しかし今度は少し首を傾げた。
「――無二の、なんだって?」
「私のことではない。牧師が君だとも言ってない」
「ドイル君。僕は負けた女の写真より、エメラルドの指輪がほしい。買ってくれるのか」
「気持ち悪いから慰めるのはもうよせ」
ホームズは請求書と所得税調査表はすべて床に落とし、例の日記帳をその下から見つけた。彼はしばらくそれを眺め、手に取って私に寄越した。
「二人目の遺体だ。これから警察と情報交換することになるが、日記の件については伏せる」
私は日記帳の背を撫でた。手掛かりになる指紋や使われているインクの種類、日記帳の革から特定できる新たな情報は何もなかった。
私は椅子に座り、眼鏡を取り出した。
「デートはどうだった」
「撲り殺しだ。君の見たのも酷いらしいが、今朝のもかなりのインパクトだ」
「食事をキャンセルしなかったのはポイントが高いぞ。行けなくて悪かった」
「この次が問題だ。死体のほうは警察に任せて、僕は調査に行く」
「仲人にはぜひ呼んでくれ。棺桶にはワトソン君を入れたらどう――か」
噛み合わない会話を永遠に続けるつもりが言葉につまり、唾をのみ込んだ。
ホームズはなんとも言えず不安そうな顔をしていた。
「ドイル君」
私は眼鏡をかけて、日記帳の淵に手をかけた。彼は構わず言った。
「君にもついてきてほしい」
どうしても開けることができない。軽い冗談で関わるべきではないことを昨夜知った。とんでもない黒革の手帖。もとい日記帳だ。私は日記帳に目を落としたまま言った。
「ワトソン君なら何と言うかね」
ホームズは少し考えた。「彼ならこういってくれる。『君のためならもちろん行くよ』」
「……断る」
「続きがあるのだ。『報酬は体で払ってもらおうか』」
「死んでも御免だ!」
ホームズは黙った。そしていった。「じゃあ仕方がないから君仕様だ。『そんなに言うんだったら、行ってあげなくもないんだからねっ』」
鉄拳の代わりの足蹴は了承と受けとめ、ホームズは満足そうだった。私はそれ以上言うのを控え、大きく息を吸い込んで、日記帳を開いた。
血文字のような赤いインクで、びっしり文字が書かれてあった。