ホームズの旅立ち🍊
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調度も照明も安っぽい廊下の先では、アセルニー・ジョーンズ刑事が私を待っていた。
『無愛想で尊大な態度のジョーンズ』とは別人だった。一緒に食事をすれば社交的だというのも嘘だ。脚色の多い私たちの合作本の、数少ない現実の知り合いだ。
ねずみだかイタチだか表現が全く一致しないある警部の現物よりもはるかに常識人だった。少なくとも人間だ。
「ドイル先生。検死解剖は済んでいるのに、なぜわざわざこちらへ?」
「知り合いの監察医に賄賂をね。君がいると電報を受け取って安心したよ。金はチップをはずんだと思って諦めよう」
「あとで回収しときましょう。それより」
ジョーンズは困ったような顔で大きな体を縮こまらせた。「彼はいないでしょうね。あの」
ホームズのことだ。私は視線を逸らした。
「あっちは別の事件の捜査で忙しい。ついでに言えば結婚予定の女性と食事中だ」
ジョーンズは信じられないものを見る目で私をじろじろと眺めてきた。
「彼女――好きずきですね。怖いもの知らずというか」
「ゲテモノ趣味だと正直に言えばいい。残念だが、ジョーンズ。彼も関わっている。大事なことなのだ」
私の真剣な表情を見ても彼は眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。扉を開けて入ってきた部下に片手をあげて遮る。手袋と手術着を受け取り、私に手渡した。
「ありがとう。状況を教えてほしい」
「直接の死因は撲殺ですが、顔も含め全身滅多刺しです。身元確認を急いでいますが、いかんせん見た目から得られる情報が……どうしました?」
死体にかけられた布を払ったとたんに後ろを向いた私の背中を、ジョーンズ刑事が軽く撫でた。
よほど青ざめてしまったらしい。
「大丈夫だ。昼間食べた合い挽き肉をもどしそうになった。医者の仕事は最近受けないのでね」
「講演会ですね」私の視線を受けとめて、彼は薄く微笑んだ。「私も説明のつかない不思議なことはありました。気に触ったならもう言いません」
顔色を慎重にさぐったが、嘲りの色は見られない。懐疑主義者の猛反発に心を痛めていた最中だったので、少し気が紛れた。心の助けとなってくれる人間がどれだけありがたいことか。
妻子のどちらかを亡くしたばかりの友人に、心霊的な慰めを与えようとして失敗したばかりであった。
時には私にも彼のような旧知の友人の助けがいる。心霊主義は私から数々の友人を奪い、新たな友人を増やし、信奉者の数も拡大する一方で批判も増やしていたのだ。
私は手を動かしながら咳払いで気持ちを隠した。「たとえば?」
ミンチをハサミで慎重に引っ張る。かろうじて張りついた唇から歯が見え、えもいわれぬ臭気を放っていた。
「独身時代のデート相手に選んだ女がですね、夢に出てきて首を絞めるんですよ。あまりにしつこいので今朝は正直に妻に話しました」
「それは大変だな」
裸の死体の足元まで隅々調べたが、中肉中背の中年ということくらいしかわからない。外した手袋を脇に、着ていた服やら鞄やらに入っていたものをすべて手帳に記入して、私はいった。
「すまないが、ジョーンズ。このことは内密に」
「わかってます。教えては頂けないのですか?」
私は首を振った。「別の筋での調べものだ。何がどう繋がっているのか、私も知らない――が、非常に気味の悪い話だ。しばらく協力してもらえると嬉しい」
「心してお待ちしています。ただ」」ジョーンズ刑事の真顔が歪んだ。「例のあの人はなるべく連れてこないでください。もう昔のことですが天下の名優に週給10ポンド払えと言われてお断りしました。なぜって彼の扮装の出来ときたら、あの高すぎる身長のせいで台無しですから」
「無駄に発達した前頭葉や、鼻や顎も個性的すぎるからな。――ジョーンズ、ひとついいか」
彼は手袋と医療器具を受け取り、首を傾げた。
「どうして彼の友人でいるのかを聞かせてもらえれば」
「医学生時代に金に困ったとき健康保険に加入してもらったからだ」私は言った。「では質問の件だが、奥さんは右手の薬指に指輪をはめているかね」
ジョーンズは驚きを隠せない様子できいた。「どうしてそれを? 会ったことはありませんよね」
「女の夢を見るのは帰りが遅い日だけだろう」
「……ちょっと待ってください。そんなまさか」
私は帽子とステッキを手に取って、扉を開いた。「降霊会へ来るなら歓迎するが、生身の体で頼むよ」
ジョーンズは首の後ろに残った指輪の跡を抑えて呻いた。