ホームズの旅立ち🍊


 私はミートパイを頬張りながら口火をきった。

「では作品を読んだ読者が依頼に来たと言うんだな? それが君の婚約者か」

 事務所とは名ばかりの汚れた狭い下宿。年中キリキリしているが賄賂で丸め込まれている女家主と、稀に訪れた私の怒鳴り声の響く豚小屋。

 依頼人は我々の本を持って下宿の扉を叩いたらしい。

 家畜展覧会と食用以外の豚は常に痩せ細っている。トリュフの匂いを嗅ぎ付けると穴を掘りたがる習性もつけ加えておくか。

 黒いダイヤの名前はワトソンとして、この場合の豚が誰かということについては愚問である。

「どうして引き受けた」

「婦人は作品ではなく登場人物のファンだったのだ。僕が意図せず書いた言葉からこちらの思惑を歪んで捉え、私生活さえ詮索される始末さ」

「有名税だと思え」

「仏の顔を六個持つ僕でさえ下半身の黒真珠を見せてしまうくらい悪質なんだぞ」

「――裸だったのか。通報されなくて誠に遺憾だ」

「喩えだよ。そんなモノで肉体改造に挑んだらワトソン君が痛がるだろう……待て」

 探偵の顔色が変わった。「彼の大事な場所に青い紅玉を仕込んでいるとなぜ知ってるんだ。見たのか、ドイルッ」

 いつだって裸だからなとは返さない。胸を目掛けて投げてきたフォークを空中でつかむ。回転させれば素早く机の下に隠れてまた叫んだ。

「地震の演習! 断じて君が怖いのではない! そんな反射神経では東洋の島国じゃ暮らせないぞ……!」

「北極熊の来襲に敵えばそれでいい。行き過ぎたオナニーが原因の病で深夜の往診をさせるような共同作者を、絞めるには充分だからな」

 大きすぎる不恰好な頭と目だけを出しているホームズ。その涙目に私はため息を吐いた。

「名誉に誓ってワトソン君の気持ち悪いイチモツに手をかけたことはない」

 ホームズはうなずいた。

「僕のほうこそ真珠や紅玉は口が滑った。いや、一度は知的好奇心からウサギのフンをワトソン君の情熱的な部分に仕込むことで試したわけだが、知っての通り腸内に残った幾つかで感染症による大惨事が」

 食事中だということを示すためにナイフを握った。ホームズは食べ終えたパン皿で顔を守った。私はいざというときのためにナイフを胸ポケットにしまった。

 彼はうっと息を詰めた。

「長年の疑問が解けたよ、ドイル君。君がナイフ常時携帯済みの殺し屋だと信じかけていた僕は哀れな男だ」

「話を本筋に戻せ。まず婚約者の情報からだ」

「彼女はキャラクターのファンだったんだ。会わせろと来た」

「会ってるだろう。毎日鏡と」

 ホームズは目をすがめた。「僕でなくワトソン君のほうさ! いい加減認めたまえ。彼は女性に人気なんだ」

 高級食材の菌類の匂いを嗅ぎつけたウシ目哺乳類が、高い鼻っぱしらをブヒブヒ言わせる光景が視える。土を掘る手伝いではなく、分け前をかっさらうつもりで先をうながした。

「彼女はワトソン君はどこだと聞いた。依頼は絵に描いたような相続財産についての謎多き事件で、よりによって職業も家庭教師なんだ。それを聞いたら全何百ページのロマンスを繰り広げる自分の姿が頭をよぎった」

「……」

「忍耐強いワトソン君には可能でも、僕の手に負えるものではない。だから単刀直入に求婚したのだ」

 ホームズはコップの中身を、聖なるワトソン君の白濁と呼んだ。私はそれを、彼が舌先でちろちろやる前に奪った。

 ホームズは眉を上げた。「彼女は受け入れたよ」

 食事も下ネタなしでできないようでは、未来の花嫁との晩餐も期待できない。結論を出すのは後回しにしよう。私は二、三度深呼吸をしてから言った。

「諮問探偵とは名ばかりの、詐欺師紛いの仕事ぶりだからな。妖精を捕まえてやると私に息巻いた癖に、懐中時計をぶら下げたコスプレ野ウサギを直接寄越す始末だ。なぜ断らなかった」

「僕はウサギのおかげで不思議の国に行けたからね。君も未知との遭遇を果たすべく、彼の穴から出る薬を下のお口に飲み込む勇気が必要かと思ったのさ。――何をしてる?」

「ナイフを研いで切れ味を確かめるつもりだ」

「食卓にもうミートはないぞ、ドイル君。それは手術用のメスに見える」

 私は髭があっても笑顔であるとわかるように目を細めた。「殺し屋を引退したわけではない。ワトソン君を殺すにはペン一本で足りることをくれぐれも忘れるな」

 前科者の言葉には重みがある。ホームズはワトソン君人形がどこにあるか目線で探した。

「断らなかった理由なら簡単に答えられる。さっきから話してるだろう、結婚すると」

「貴様の大嫌いな恋のライバルが現実化したのにか」

「家庭教師でメアリーというだけさ。そりゃ最初はワトソン君に対する熱い熱意に対抗心も燃えたが」

「読者は作者である私たちより作品について詳しいと思っている。近年じゃそれが事実だから余計腹立たしい」

「僕はワトソン君の素晴らしさについて語った。僕は如何にワトソン君を好きかについて語った。僕は三代目ワトソン君に彼女を会わせた」

「――服は着せていたんだろうな」

「これ以上噛み合わない不毛な会話を続けるつもりはない。今回は真面目な話なんだ。着せているわけがないだろう!」

 無意識に出た拳が標的の頬に炸裂し、彼はスープに顔を突っ込んで息を引き取った。

 私は首尾よく殺し屋の異名に恥じない仕事をやりきった自分に、満足の息を吐いた。暴力はいけない。行儀の悪い仔犬をしつけるときは別だと自分に言い聞かせる。育てばより多くの拳が必要になってしまう。

 皿の中で逃げるプディングを追いながら考えた。

 彼が騙されていないか心配だ。こう見えて傷つきやすく、女に免疫がなく、貴重な童貞と処女を蝋人形に捧げるような寂しく純粋な男である。

 彼の周りには相変わらず私しかいない。

「ぐっ、ぐほっ。げほげほ……ド、ドイル! 滝壺に落ちたら滝の女神がこう言うんだ。『あなたが落としたのは左側のワトソン君ですか、右側のワトソン君ですか』。君が答えた。『ノンケのワトソン君です。私は男色が嫌いなので』。女神が答えた。『よろしい。正直者にはアブノーマル・ホームズ君をあげましょう。今度は大事にするんですよ』。君は僕を抱き絞める代わりに殴り倒した!」

 ――私しかいないのだ。

 ホームズはナプキンで顔を拭った。「また泣いてるのか。情緒の滝壺はかなり深いみたいだな。落ち着くまで君が大好きな降霊術の話でもするかね?」

「内心では馬鹿にしてるのにか」私は目頭を押さえた。

 ホームズは顔をしかめた。汚れたナプキンを皿の上に投げる。

「霊なんて居ようが居まいがどっちでもいいさ。君の怒鳴り声を聞くと安心するだけだ。孤独なときの支えとして、若いころのように頼ってくれてもいいと言ってるんだよ」

 ホームズは頬杖をついて微笑んだ。「君が幸せならそれでいい。単純な話じゃないか」

 彼を見損なっていたようだ。私は反省した。

「ああ。…………………………………………………………………………………………霊はいるぞ」

「よし。いつもの調子が出てきたところで本題の続きだ。メアリーはとんでもないモノを持ってきた。きっと驚くぞ」





 探偵は冒頭の概要を私に告げたあと、黒革の手帖を胸元から出した。




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