ホームズの旅立ち🍊


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 モリアーティ教授の日記帳が発見されたと風の便りに聞いたのは、私がベイカー街からすっかり離れているころだった。

「日記帳?」

「黒革の手帖さ」

 その響きは何か――何かとてつもなく不吉なものを予感させた。『ジェームズ・モリアーティの日記』なら、ウィットに富んだ華やかな恋愛話でも聞けそうな雰囲気があるのだが。

「モリアーティは私たちの作り上げたキャラクターだろう! 現実には存在しない」

 ホームズは指を上げて遮った。

「君の、だ。『僕を』殺すために『君が』作り上げた人物さ」

「それにしても――どうして架空の人間の日記が。おかしな話だ」

 続きを話すためには、嗚咽に気づいた私立探偵が呆れて私を振り返ったところまで戻るしかない。

 ことのあらましはこうだった。




 近頃すっかり涙腺が緩んでしまった私は、午前中ホームズ宅を訪れて話し込んでいた。かれこれ二時間にはなる。彼は小道具の伊達パイプをくわえ、長椅子の革をイライラと叩きながら言った。

「ドイル君。僕もそれほど暇ではない。久しぶりに会いに来たかと思えばグチグチやったあげく目の前で女子供のように」

「泣くとスッキリするのだ。新しい精神療法を自ら実践している!」

「医者の鑑だね。数年ぶりにメスを持たせたら自慢の髭をズバッとやられそうだ。やめてくれよ」

 元凶の男はいつもどおり長椅子に寝そべり、彼専用の抱き枕――かなり美男に改良された三代目だ――を横にして、背中から抱きついている。

 似合わぬ八木髭の尖り具合を指先で確かめながら。

 見るからに暇そうだ。早朝から来客でも迎えていたのか、くすんだモーニングに皺が寄っている。

 私のお下がりだった。

 他にも一張羅が盗まれたことがある。物的証拠を出せと言って聞かないので、オーダー票と店主の職人技の品番刺繍とを照らし合わせて発覚したあげく、ポケットにサンドイッチやら大人の玩具やら詰め込む癖を思い出し結局くれてやったのだが。

 私は彼を睨んだ。

「白状なものだな。自分が有名になった恩も忘れて」

「それは君だけの功績かい?」

「私の貴重な時間を根こそぎ奪ったのは誰だ!」

 首尾よく殺した探偵の物語に見切りをつけた私は、自分が本当に書きたかった物へ惜しみ無い愛情を注いでいた。

 返ってきたのは大量の手紙。そのほとんどはホームズを復活させろという内容で、私のか細い糸なみの精神力は既に切れかけている。

 彼はそっけなかった。

「しかし君を臨時開業医あるいは開業窓際族から救ったのは僕の存在だろう。来る日も来る日も永久に来ない患者を待ち続けるより、遥かに有意義な人生だ」

「国民が私を指差し、最初に口に出す名前はなんだ?」

 ホームズはパンッと手を叩いた。

「それは『初歩的だよ、ワトソン君!』」

 歌うように言って飛び起きる。書き物机の前に座って、私が週に百回はサインを求められる例の本を振り回した。

「答えは素晴らしきかなワトソン君の名前だ。僕が舞台のなかで『初歩的』という文句と共に何度も連呼したからな」

「三流劇場の立ち役者は貴様か……!」

 私は探偵の一度も発してない言葉がなぜこうも一般に広まったか即座に理解した。

「タチ? 僕はどっちでもいいが、君相手で重いのはお断りするね」

 反射的に拳を出すが、DVで訴えるぞとワトソン人形を庇う姿に憐れみを覚えた。いつからこんな男になってしまったのだ。彼が変わったのか。私が変わったのか。

「主人公の名前など誰でもいいさ。物語で重要なのは――」

 ホームズの潤んだ眼が私ではない遠くの何かをとらえて、物思いに耽りそうになった。

 彼の優先順位は毎度のこと決まってる。

「ワトソン君?」

「君の数ある素晴らしい作品の中で、彼ほど優秀かつ有能かつ呼びやすい男はいない。やはり名前は重要だ」

 この男の口からだけは、彼自身の名前を聞かずに済む。私がいまだに彼の居る場所を訪れる唯一の理由だった。

 探偵は私が持ち込んだ原稿の束をパラッとやって元に戻した。

「今日は久しぶりに仕事が入ったよ」

「『ホームズ』の名前を聞かなくて済むなら手伝ってもいいぞ」

「探偵のほうの仕事だ」

 猫の捜索かと聞けば、殺人事件という言葉をこぼした。

「――なんだって?」

 ホームズは再度繰り返し、私が持ってきた紅茶をすすった。

 彼の資金繰りでこの嗜好品は無理である。当然私の手土産だったが、客である私の前には珈琲が出された。

 それについて抗議をすれば、幸福には犠牲がつきものだよと話を逸らされる。うらめしい。

「僕が探偵稼業を始めて、最後の仕事から何年ぶりだと思う」

「最近では本職がなんだったのか思い出せないレベルだ」

「その通り。僕も依頼人が言っていることをしばらく読み違えていた。てっきり科学薬品の請求について催促状でも持ってきたのかと。聞きたいかい!」

 探偵は脚をかえして椅子を自分の側に引き寄せた。私は扉に向かった。「そろそろ昼飯の時間だな」

「夜の食卓もとい豚の餌がいつもより豪華だと聞けば、残ってくれるだろう」

「私が君の従順な医者であり軍人であり助手であるワトソン君ならな」

「親愛なる未来のホームズ夫人がもてなしてくれるよ」

 私は血の気が引くのを感じ、振り返った。「――ホームズ夫人?」

「事件はそっちじゃない。あのね、ドイル君」

「結婚するのか。いつ。どこで。誰と!」

 肩口を掴んで揺さぶると、ホームズは若干顔を赤らめて視線を床に移した。なぜ赤らめる必要がある。

「君の気持ちは薄々察していたが、応えてあげることはできない」

「殴らず怒鳴らず苛立たずにつき合ってやるから説明しろ」

「突き合いは遠慮するよ。――殴らないんじゃなかったのか? 一昔前なら未だしも独身男二人の同居にはカモフラージュが必須」

 なんのカモフラージュだと叫びかけてやめた。同居もしていないが、不毛なやり取りは極力避けたい。だが言いたいことは理解できる。

「私は既婚者だ」

「男の愛人をつくる紳士は珍しくない。大抵片方は金持ちの既婚者のブ男で、もう片方は独身の美男と相場が決まってる。君と僕のように」

 私は深呼吸で自分を抑えた。

「アドラーの件だってあるだろう。『探偵は彼女に惚れていたが失恋、親友の優しさと気遣いとやっかみでつっこまれなかっただけだ』と創作のどこかにつけ加えろ。愛に飢えたご婦人方が大はしゃぎで支持してくれる」

「突っ込まれたほうの話についてもっと詳しく――」

「ホームズ。夜中まで続けてもいいんだぞ」

 ああ、だからそれなのだよと片手で頭を抱える。知らぬうちに肩口を掴んで立ち上がらせ、壁に追いやっていたようだ。

 辺りに散らばった原稿を踏みつけていたことに気づき、足を上げた。

「構うな。どうせ君の歴史小説の原稿及び設定資料だ」

「私にとっては最重要書類だ!」

「僕の存在に悩まされるのもこれが最後だ。ドイル」

 いつになく真剣な顔を見せるので、私はうろたえた。

 足元の椅子にちゃっかり持ち出した蝋人形のワトソン君がしどけなく横座りしていなければ、もっと感銘を受けたはずだ。

「どういう意味だ」

 窓から入った空気が二人の間を通りすぎた。静かな目をしている。何かたくらんでいるのか?

 彼は繰り返した。

「最後だと言ったんだ。今回の依頼を解決できなければ、僕は終わりだ。君の望みどおり、これで二度とこの世で最も嫌な名前を聞かずに済むよ」

「あれは――君のことではない」

 どういう意味でもだ、とホームズは座り直した。私は彼が気にしていることに衝撃を受けた。

 赦しを乞うには遅い。





 探偵は小道具ではないパイプを取り出し、昼食にするかと言った。




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