ホームズと生ける屍

 相棒の知性を、ときに侮辱以外の何物でもない言葉で指摘した男がいた。



 本当にパイプ程度の存在であれば、相棒には外見を戻す薬を仕込んだにちがいない。

 しかし、老人は彼を一度もそんな風に思ったことはなかった。

 悪臭を放つ腐りかけの新人類でも、彼には彼自身であってほしいのだ。たとえ、ワトソン君に自分自身の衰えた肉体を認識させることになろうとも――。

 エゴイズムの塊だと老人は感じた。

 自分はいずれ人間として死ぬのだ。外見だけのワトソン君を、向かいの椅子に座らせればいい。それが彼自身の幸せである。

 彼は人間としては完全に死んでいるのだから。

 あるいは相棒がゾンビとして生きる人生に責任を持ち、自分もゾンビになるのだ。知性さえあればいい。理性さえあればいい。

 外見を整えたところで、それは自身の本質ではない。老人はすでに老いていたが、探偵だった。





 そして、探偵である前に一人の人間だった。





 ワトソン君が頷いてくれるそのひとつが、ただの意味もない反応であるなら。それこそ探偵にとってなんの価値もない。

 そこにあるのはゼンマイ仕掛けのように首を縦に振るワトソン君の死体だ。

 堪えられるとは思わなかった。


「許してくれ」


 引き金を引きかけた。

 誰かが、息使いのような謎の言葉を吐いた。


 待て。


 探偵は目を見開き、耳を寄せた。

 ワトソン君は帽子を持ち上げ、それを何度か探偵の胸に擦りつけた。すると、今度の言葉は聞こえなかったが、半分残っている唇の動きでわかった。ホームズ。

 あんまり耳を近づけると、やめろ。やめろ。と手で追い払う。


「わかるのか……?」


 期待を込めた目に、頷いたように見える!

 ワトソン、わかるのか、と叫んだ。ワトソン君は、銃を指をさして、一生懸命何かを伝えようとしていた。

 隣の部屋に押し込んだはずのトビー三世が、吠えながら外へ飛び出てくる。

 ワトソン君の足元にじゃれついた。彼は後ずさりして、躊躇いを見せた。近距離だと食欲を刺激するのだ。

 探偵はすぐに部屋へ戻り、外見を戻す薬を猟銃に仕込もうとした。これだけ知性があるなら、選択は決まっている!

 自分のことさえわかってくれれば。何がわからない状態でも、それさえ――


「ホ、ム」


 振り返るとトビー三世を抱いているワトソン君がいた。


「ワトソン君! すぐに話せるようになる。舌くらい一日で生えるさ」


 しかし、猟銃を向けると彼は首を振った。今度は長い時間をかけて、老人は相棒が望んでいることを知った。

 ワトソン君は、老人が探偵であるのと同じくらい――生き甲斐を感じ、真っ当すべき仕事があったのだ。





 そして、探偵は彼の願いを叶えた。これがこの話のすべてである。





 大英帝国を中心に流行った謎の奇病は、急激に収束を迎えた。

 とても人間の肉なんて固くて食べられない、と食肉を拒み続けたフランス人には外見を。兄や警部には知性を戻したとか戻さなかったとか。

 その後の探偵についてはわからない。

 老衰で死んだのを相棒が見送ったとも。各地を転々としながら新人類に薬を撃つ途中で、ゾンビになってしまったとも言われている。

 しかし私がいま、とても見られたものではないらしい外見を抱えながら。この書記を伝記として書けているのは、探偵のおかげなのだ。

 そして、老人にせよ生ける屍としてにせよ、彼の知性がまだ生きていることは疑う余地もない。





 窓際の紳士が弾いてくれるヴァイオリンの音色が、すべてを証明している。






――――fin――――





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