ホームズと生ける屍

 動きのない三体の生ける屍に、探偵は苛立ちを隠せなかった。



 この犬を使った実験の勝敗は、事を起こす早さにあった。

 日が暮れてからでは遅いのだ。気が焦るあまりに銃口がぶれる。そっと持ち直して額の汗を拭った。

 年老いた体に芝生の硬さはきつい。それでもやらなければならなかった。

 ロンドンに残って闘っているワトソン君を思うと、胸が張り裂けそうなのだ。恐ろしい結果を招くことになった理由が何かはわからない。

 人々はなるべく元の穏やかな生活と何も変わってない風を装って暮らしていた。田舎の村では特にそうである。



 ワトソン君と別れた日のことは一番はっきり思い出せた。



 かろうじて動く蒸気機関車の見送りに、ワトソン君は犬を手渡してきた。

 周囲に新人類はいなかったが、それぞれ手には武器がある。

 狂暴な者の頭を打ち砕くと、とりあえず二度と起き上がることがないのは証明されていた。

 それ以外の捕らえられた者たち――例えば我が兄や警部――は檻に隔離して収容されている。

 どう見ても半ナマの死体が動いてる場合にしか、処刑されることはなかった。人間は相手が人間の形をしている限り、非道にはなれないのだ。


「この犬を僕だと思って可愛がってやってくれ」

「なぜ一般人の君がこんな危険な街にいなくてはいけないんだ!やはり僕が残る」

「ホームズ。バリツはまだ覚えているのかい」

「あれはバーティツと言うんだ。君は間違えて書いた……なぜ教え合わなかったんだろう」


 他にたくさんの用事があったからだ、と医師は探偵を汽車に乗せて、その襟首を取った。唇が触れ合う。

 引き離された恋人たちが周囲にもいたが、時代も多少は変われど老人同士のキスシーンには目を奪われるに違いない。

 慌てて離れようと扉の縁を掴んだ瞬間、傍で汽笛の音と同時に銃声が響いた。

 探偵は裸踊りで駆け寄るその男が、時速イコールほぼ老婆並の足捌きでホームの人間に噛みつくのを見た。

 遅い。

 あまりにも遅すぎる。

 新人類の脅威が世間に広まらなかった理由は、その速度にあった。歩き方がこそ泥並なのだ。

 それでも確実に潜んでいるゾン……生ける屍の数は、抗体が開発されるまで増殖し続けるだろう。


「ワトソン君!」

「僕のことは心配いらない。ホームズ! ――元気で」


 探偵は苦しい動悸にきゅんきゅんしている胸ときゃんきゃん鳴いてる犬を押さえ、汽車が動き出しても追わない相棒の姿を目に焼き付けた。

 危ない後ろ! と言う前に、ワトソン君の手刀がゾンビを……死んでるのに生きてるみたいに動いて気持ち悪いソレを殴った。

 探偵は膝小僧を抱えて床に座りこみ、両目を覆って堪えた。





 長年の友人を危険地帯に残したまま、その場を去ったのである。





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