ホームズと生ける屍

 探偵は激しく憤っていた。



 ヴィクトリア女王亡き後の我が国に、正義の香りは微塵も遺っておらず。

 絶えて久しい貴族社会の世襲が廃止も同然の扱いになったことで、自分がこっそり受けていた爵位さえ役に立たなくなった。

 いまさら『サー・シャーロック・ホームズ』などと名乗っても、「舌を噛みそうだよ、ホームズ君。可愛い僕のサーシャ」と懐いてくれる男以外には呼ばせたくないのだ。

 その彼が傍にいないなんて。

 しかしワトソン君は年を取っても軍隊経験と医師免許のある英国人であり、棺桶から出て動き回る死体を放ったまま逃げるわけにはいかなかったのである。


 探偵は説得した。

 一緒に田舎に逃げよう。

 地球の裏側で共に死のう。


 あるいはゾ……で始まる間の抜けた新人類になり、生き恥晒そうと死肉を喰らおうと、永遠の彼方にベイカー街221Bで事件を解決しようと。

 いっそその方がマシだと思ったのだ。

 そうすれば少なくとも「私の胸の肉はどこにあるかご存知?」と囁く素敵な御婦人とワトソン君との出会いを防げるし。

「尻の穴から腸が出てきて超イヤだ」などと馬鹿な問題を持ち込むヤードの人間から、ロンドンの平和を守ることができる。


 探偵のすべては相棒とあの都会にあったのだ。


 極端な話、ワトソン君がいないと探偵は探偵として認識されない。故に自分の居場所はベイカー街でなければならない。

 誰がわかるというのだ?

 剥がれた皮のピンク色がワントーン明るいことや、飛び出た目玉の直径が2ミリ短いからといって、しょぼくれたこの紳士が世紀の名探偵だと。

 もちろんまだ新人類として生まれ変わってはいないから、なんとか体面は保っているが。

 それでもワトソン君は強情だった。

「君の頭脳を無駄に食い散らかされたくない、それこそ世に遺すべき宝だ」と、探偵と犬をサセックスに送り届けたのである。

 謎の奇病はすでに欧州全土を支配していた。もはや一刻の猶予もなかったのだ。

 探偵の頭脳こそこぞって手を借りに来た政府連中に、ワトソン君はこう言った。


「闘うべき時が来るまで、ホームズはここにいてはならない。ゾ……たちは今も日に日に増え続けているのだ。彼を少しでも人気のない安全な場所へ行かせることが、私たちとゾン……たちの戦局を変えるでしょう」


 ワトソン君がその品のない名称を使うたびに、探偵の高い鼻の頭は真っ赤になってすべてを拒否しようとした。

 理性と理屈に相容れないものを、彼のたっぷり詰まった脳みそが受け入れなかったのである。

 イギリス政府はひとつ条件を出した。

 探偵が戦略を練るフリをして国外へ逃げる可能性も考え、人質として身近な者すべてをロンドンに置くことを了承しろと――。





 かくして探偵は、ひとりのどかな田舎で牛を見て暮らすこととなったのだ。




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