ホームズの誕生


「どうせやるなら、徹底的にやってくれよ」 とホームズは言った。

 ワトソンが自分の死に絶望し、尊い友情が実は愛情だったことに気づく。

「これだ……これだよ!」

「書けるか。そんなもの」

「僕はどうやって死ぬんだい?」

 まだ決めてない。

「持病の躁鬱で自殺なんてのはいやだ」

「敵役をすでに創ってある」私はペンとメモ帳を手にし、書き取めた。「『犯罪界のナポレオン』を倒して死ねば、誰も文句は言わんだろう」

「相手の能力は、頭が並外れて切れなくてはね。この僕を倒すのだから」

 改めて言うが、作品中のホームズは架空のキャラクターだ。

「背も高く、眼光も鋭くないと」

「わかった、わかった」

「天才だ。それに、僕のことが好きだ」

「あ?」

 ホームズはうっとりして、吸っていたパイプを落とした。

「ワトソン君は僕を守るため、ふたりでスイスへ逃げようと言うんだ」

「なぜスイス?」

「『もし捕まるようならライヘンバッハの滝で死のう。愛の逃避行だ。きみとなら心中してもいい』」

 変装と演技の得意なホームズは、優しげな声を作ってひしっ、と自分を抱きしめた。

「ワトソン君!」

 言い忘れたが、彼はむかし、喜劇役者だったことがある。

 そしてある朝、私は狂犬に殺されかけていた。目を血走らせ、両手を延ばして襲い掛かる。私を窓から突き落とそうとしているのだ。

「約束はどうした。約束は!」

 生前のホームズと相棒を書くという話のことだ。あれからすでに数年の月日が流れていた。ホームズは作品中での自分の死に方に、余り満足していないらしい。

「とってつけたような物語だ。リアリティのカケラもない」

 誰のせいだと思ってる――貴様だ!

「ワトソン君と旅行だっ。勝負下着用意したかな? あ、いかん。鞄は囮に使うんだった。途中で購入しなくちゃな」

 書いて。だの、

「スイスの絶景を楽しみながら、野外でいちゃいちゃを教授に見せつけよう」

 書け。だの、

「最後の夜は、あ。あ。愛の告白タイムだ。薄灯りの中『君だけを愛してるマイ・ダーリン』キスキスキス! 燃え上がる互いを慰めるッ」

 書きやがれ! だの。

 おかげで私はホームズを殺すのに何の罪悪感も覚えず。事情を知る編集者に、「君は間接的に彼を殺したことになる」と責められても、「良心の呵責はそれほど感じないな」と答えられた。

 しかしながら。ホームズの妄想は、続きが書かれなくなってから、いっそうひどくなった。私はある決断を迫られることとなったのだ。

 私は再三ホームズに、「自分で書け!」と言ってきた。読者は何故気づかないのか。『緋色の研究』『四人の署名』二作の長編と(『恐怖の谷』はまだなかった)。明らかに毛色の違う『バスカヴィル家の犬』。

 これはホームズの作品だということに。

 冒険活劇じみた話の展開は私の創作だが、「ワトソン君を書く!」と言い出したホームズに空気銃で狙われ、私はやむなく物語を創った。

「バレないためにはいっそ違う作風にしたほうがいい。推理の過程を省こう」

 ホームズ当人の出番はほとんどない。前半はワトソンのみの語りで構成されている。その理由は……言うまでもない。

「僕に手紙を書くんだ、ワトソン君。全部大事に取っておくよ!」

 私はめまいに額を押さえた。

 連載中の読者の反響は凄いものだった。探偵の再登場に、人々は熱狂し。当の本人は『ワトソン君の日常』を喜々として書いている。

「僕と離れて寂しいかい? 大丈夫、いつでも君を見ているとも」

 紙面でな。と思ったら、「丘の上で隠れんぼがしたい」と言い出し。

「ワトソン君! 見つけてくれよ」

「ま、待て。正気か? 脈絡ないぞっ。着替えの服は、無精髭は!」

「い、嫌だ、ワトソン君にそんな顔見られるのは耐え兼ねる」ボーイを使うぞ、と。

 すべての小説には約束事があって、その約束を簡単に破ることができるジャンルがある。

 ――二次創作だ。

 ホームズの妄想はとどまることを知らず、ある日完全に自分を復活させてしまった。パロディの世界ではよくあることだ。死んだ人間が生き返る。もちろん方法はどうでもいい。結婚してた相手は不慮の病気や事故で死なせ、代わりに自分を投影した人物を彼の傍へ。

 ワトソンの妻は二度と生き返らなかった。

 滝後の作品は概ね不評だった。事件のネタが初期の作と被るばかりか、ホームズの性格がまるで変わってしまったからだ。コカインをやめ、話し方すらどことなく優しい。皮肉屋の面を抑え、享楽的な部分は鳴りを潜め。

 当然だ。本人が書いているのだから。

「うふふ。僕のワトソン君。愛しているよ、可愛いダーリン」

 ときどきだが私も書いた。その場合につい二度目の結婚生活を描写し、ホームズと喧嘩になる。

「いいだろう! 滝以前だ」

「君の健忘症には呆れる。この日付だと滝より前だっ。ワトソン君は再婚などしてない。君とは違う!」

 フランスの作家が書いた怪盗対探偵に、私は立腹したがホームズは喜んだ。「世界中にワトソン君がいればいいのに……」

 そういうと雷に打たれたかのごとく、跳びはねて椅子を降りた。

「ドイル! 僕は手を引く。もう書かない」

「……まあ、いいが。どういう心境の変化だ」

「使命がある」

 夢に生きるようになると、ホームズは薬を必要とはしなくなり。探偵業もすっぱりやめ、養蜂を始めてシャーロック・ホームズからは手を引いた。『今後二度と僕の一人称と称して作品を出すな』と手紙がきたので、おそらく読んではいるのだろう。

 私は年々増え続けるホームズの二次創作は、ほとんど本人が書いているのではないかと疑っている。この世界からホームズが消えない理由は、それしか考えられない。

 長生きをして、例えば憧れの日本語を覚え。





 例えばここで、自分とワトソン君のいちゃいちゃを書き綴っているのだ。





End.
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