ホームズの誕生
「なんて素敵な人物だ! 実在するのか?」
ホームズは興奮覚めやらぬ顔で言いながら、両足で床を踏みつけた。前から薄々気づいていたが、知らぬふりをしていたことがある。ホームズは、女には興味を示さないが。
男は別だということに。
数は少ないにしても、依頼人がベイカー街のあの部屋を訪れたとき。相手が女であれば、一応の礼儀は尽くすものの、事件後は他人だ。それが男だと話はかわってくる。相手が太っていようが、ハゲていようが、狂気に目を血走らせていようが。とにかくご機嫌なのだ。
「モデルはいるのか? どうなんだ、答えてくれ」
「いないな。強いて言うなら私だ」
ショックのあまり死にそうだ。余計な一言を後悔した。
「そ、そんなわけがない。ワトソン君がきみのはずない!」声が完全に裏返っている。
儲かったのがどうとか言っているが、本当のところ。新作を一番心待ちにしているのは、彼だ。一時はホームズをノーマルに引き戻そうと、かかせない相棒となった医師を作中で結婚させたが。執拗な嫌がらせに負けて、ワトソンの既婚者としての影は失せてしまった。
「僕のワトソン君」と言って、私が勝手に書くのを許さない。
「ワトソン君はこんなことは言わない」
「ワトソン君は紳士だから早く起きれる」
「ワトソン君は僕を理解してくれてる」
いつの間にか奴の妄想のワトソンができあがり、奴がなにか言うたびに書き換えねばならず。
揚げ句の果てには、
「ワトソン君とお風呂に入りたい」
「ワトソン君を心配させたい」
「ワトソン君に守られたい」
……と、わけのわからない注文をつけはじめた。
そんなに言うなら自分で書け! 私が書きたいのは歴史ものだ。冒険活劇ものでも男色愛憎ものでもないっ。
「僕のためにワトソン君を書くんだ、ドイル!」
知るか!
すっかり二次元の恋人に嵌まってしまったホームズは、可哀相になるくらい現実にいない人物を求めだした。週末はコカインに耽溺し、夜中にヴァイオリンを奏で、毎夜その名前を口づさみながら、眠りにつくらしい。
「どうしてワトソン君は実在しないんだ」
もともと痩せた体から、さらに肉が落ちた。気の毒だが言わなくては。「ホームズ。次号のストランド誌できみを、殺すことに決めたのだ」
ワトソンを、彼に黙って結婚させたときほどの怒りは見せなかったが、暖炉から火かき棒をとり、自慢の力技にまかせて折り曲げた。
無言の抵抗で私を睨む。
「貸せ」
私もふんっと息を詰め、棒を元に戻し、そのまま力を加えて真っ二つに折った。
「……落ち着いて話し合おう」
いいとも。
「僕は死んでもいい。ワトソン君さえ書いてくれるなら」
「うむ。生前ということにして二人とも書いてもいい」
「ありがとう」
ホームズはしょんぼりうなだれた。彼の意地の悪い部分を、まるきり変えてしまったワトソンという男は、偉大だ。可愛げのある探偵の姿に、さすがの私も、彼が好きになりはじめていた。
――といいたいところだが、前言撤回だ!
翌日ベイカー街を訪ねるとホームズは目の前で。すでに墓に入った女の写真を的にして、射撃の練習をしている。うるさい上に、このうえなく危ない。扉を開けた途端の惨事。
間違いなく私も狙っている。
下宿の女主人が怒鳴りこまないのには、単純な理由がある。ホームズは依頼人から脅し取った金に物を言わせて、身近な者を操っているのだ。
私をちらっと見て、狂暴な犬のように唸った。「話し方がそっくりなんだ」
十と何発か目に狙いを外した彼は、激しく舌打ちする。
「貧しい市民や友人の味方、優しいとかいう点まで似ている」
女のやらしさだ、ダマされるな! と叫んだ。
「イレーネ・アドラーのことか?」
「それはドイツ語読みだ。イギリスだとアイリーニだろう」
「どうでもいい」 私はきつい声で言った。「読者が名前や日付にこだわる理由がわからん。面白いなら揚げ足をとるな!」
「だいたいあの女はアメリカ人だ。何故ドイツの王族と関係が持てるんだ」
ホームズの発言は人種差別に基づくものだ。
アドラーはホームズが知能戦で負けた相手である。実在はしたし、女に興味のない彼が、アドラーの写真を欲しがったのも本当のことだ。
問題はその理由だったが。
「日本の伝統『丑の刻参り』で復讐してやる」
それがなんなのかは、知らないが、超自然的な物に頼っていることは、想像がついた。現実のホームズは、直に闘って敵わない相手には、どんな手段でも使う男だったからだ。何故か藁と釘を大量に買って来て、神の社がどうとか、杉の木だか楡だかを植えると言い出した。
何週目かに彼女の訃報を聞いたときは、「あの女が死んだ! これで汚点を消したぞ」と、大喜びして年代物のワインを開けたのだ。
この探偵が、ろくでなしなのは今に始まったことでもない。
しかし今。ぶつぶつ呟く名前は、イレーネでもエレーナでもアイリーンでもなかった。
「めありー。ううう! メアリー・ワトソン!」
アドラーの写真に恋敵を思い浮かべ、死んでなお呪いをかけている。
「ワトソン君……僕だけのワトソンっ」
泣き出した。
こいつはアホだ、とわかってはいるが、可哀相になってくる。
つくづく自分は人がいい、とため息をついた。