ホームズの誕生


 長年さまざまな冒険と共に生きてきた。若かりしころは北極にも行ったし、戦場では軍医として活躍したのだ! しかし。

 私のささやかな夢と暇つぶしが、人生を変えてしまった。

「軍医になったのは開業資金を得るためだろう。小説だって医師として食べていけないせいだ」

 この嫌味な男は名前をウィリアム・スコット・S・ホームズという。自称私立探偵などと名のっている。その実態は、仕事のないときは部屋に篭って、私の鞄から盗み出したコカインをやる男だ。

「僕のおかげで儲かっているだろう? そんな目で見るのはやめたまえ」

 ホームズと私は、大学の研究室で知り合った腐れ縁だ。それ以外の何物でもない。先程から話題にしている本の出版に、一番反対したのはこの男だった。しかし。私は彼の実体験を小説に書いたことはいまだかつてない。

 そんなものはちっとも面白くないからだ!

 依頼人の犬や猫や赤ん坊の捜索だの、浮気調査だのは日常的。加えてロマンスを求めようなら、女という存在を馬鹿にしきっている奴だから、「きみの少女趣味になぜつき合わなくてはいけないのかね?」などと言って名前を提供したがらない。

 私が考えた苦肉の策が、いずれ当の本人を夢中にさせるとは、だれも予想しなかったはずだ。

 振り替えれば、いつにもまして患者の少ない日の出来事だった。私は普段通りに紙とインクとペンを出している。半分ほど書き上がった小説は、普段書いている短編と違い、まだどこにも出版できるあてはなかったが。多少の期待と楽しみに、時を忘れてペンを走らせていた。

 そこにまたあの男がやってきたのだ。

「閑古鳥が鳴いているな」

「なんだと?」

「日本語のたとえかただ。バリツという技を教えてくれた人が言ってた」

 いつか本場に行きたいものだ、と笑う。

 意味はわからなかったが馬鹿にされた気がする。私は「扉を閉めろ」と怒鳴った。普段は紳士を絵に描いた人間だと自分でも思う。だが、この男相手だと何故かいらいらを抑えきれない。

「また読まれもしない作品を書いているのか。本業がよほど暇なのだな」

「きみも人のことが言えるのか? 現実はこうだが、見ろ。小説の中では事件がたっぷりだ」

 紙を奪われた。二、三枚読んで、机にほおり投げた。「なんだい。この長ったらしい駆け落ち話は」

「それは第二部だ。第一部に別の主人公がいる」

 メモを渡すと、さも嫌そうに顔を歪めた。

「実名を使うな。仕事に差し障る」

「これが嫌ならきみが考えるのだな」

 ホームズは診療用の椅子に腰掛け、いつの間にか取り出した私の葉巻を吹かした。しばらく黙って目を閉じ、指先を合わせて瞑想に耽る。パチと見開き、満面に笑みを浮かべてこう言った。「シャーロック・ホームズだ。僕のミドルネームだが、誰もそう呼ばないから気づかないだろう」

「大仰すぎやしないかね。シェリンフォードなんてのはどうだ?」

「前から思っていたが、君はセンスが悪いな。小説のタイトルもいつもありきたりだ」

 我慢の限界だった。「いまきみの登場シーンを書いている。薬のことを書くぞ!」

「きみは核心をわざと外して書くのが得意だろう。たまに夢見がちな眼差しをする、とか書いてごまかせ」

 そう言いながら、書きかけを手に取った。また読んで投げ出すに決まっている。この男はいつもそうなのだ。皮肉たっぷりに世間を斜に見て、すぐ人を馬鹿にする。

 変わらないその性格に嫌気がさし、あらゆる知人は怒って逃げ出した。気がつけば彼の友人は私ひとりきりだ。いまは黙って字を追っている目が、いつ侮蔑の眼差しに変わることやらわからない。そう思って待っていたのだが。

 彼の様子がおかしくなったのは、それが最初だった。

「ジョン・H・ワトソン。誰だい? これは」

「きみに対していささか鈍い人物が必要だ」私はペンの端を噛んで言った。「実際のところ、きみの能力は一般人並だが、小説の中では超人に仕立て上げるつもりだからな」

 根性の悪いところはちょっとばかし改造、ゴホン。工夫するにしても、目線が読者に近い人物を、別に置く必要があった。

 ホームズはじっと原稿を見つめている。次に何を言うか、想像もつかない。いや。私の想像を遥かに越えることを、口走ったのだ。

「彼は……僕の理想の人だ」

 夢見がちな眼差し。自分で言った表現にピッタリだった。頬がピンク色に染まり、まるで。まるで、そう!

 美貌を褒められた少女のようだ。


 私は衝撃に言葉を失った。


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