戦場のワトスン


 小雨の降りそうな天気に顔をしかめると、叩きつけるような音がした。

 急な雨に苛立ちを隠せず、無用となった煙草を捨てる。私には数限りない細々とした習慣があり、そのひとつが公園を散歩することだった。

 特別な用事もない日々を送っているうちはよかったが。いまは非公式の患者を一人抱えているようなものだ。午後に起きてくるというマイクロフトに最初の数日こそ呆れたが、弱めた体を引きずりながら悪天候の中を散歩する無意味さを噛み締める。

 避けきれぬ水たまりを馬車が跳ね返す。思った以上に悪い環境だ。人の多すぎる土地や少なすぎる土地では、薬物の依存率が急激に上がる。

 マイクロフトの生活は単調なことの繰り返しで、週末にはオペラを聴きに行くこと。葉巻や嗅ぎ煙草やパイプを初めとするあらゆる煙を呑むのが好きなこと。椅子に座って特別楽しそうにもせず化学の実験を行うこと以外は、ディオゲネスというクラブにいた。

 あとは寝て食べて起きるの連続だ。実験に関しては巨大な頭が必要より多く働いてしまい、結論が先に出てしまいやる気を削ぐらしいのだ。

 私は僅かな所持品を除き、残りは友人にすべてやって身ひとつで彼の元へやって来た。

 入れ代わりにメイドではなく家政婦が辞めることになり、約束された食事は結局のところ最初の一度しか食べることがなかった。マイクロフトは彼女のためにかなりの額を渡した。そのほとんどを装飾華美な帽子と引き換えて、彼女もまた少ない荷物を抱えて玄関に居た。

 互いの荷物をドアの前で行き来させるときに、哀れむような目で私を見る。

「あの方と住むなんて、正気とは思えません。物好きですわね。神経性になっても知りませんよ」

「次は従者でも雇うから心配ない。職に困ったらまたおいで、ハドスンさん」

 家を買ったので下宿でも始めます、お元気でと彼女は出て行った。それが最後である。いったいいくら出したのかと聞いても、マイクロフトは首を振るばかりだった。

「長年の労をねぎらうには安すぎるくらいさ。向こうもそう考えてる」

「家政婦だけと聞いていましたが」

 彼は苦笑した。

 メイドの方は人の数に入れられないとすぐに知った。革靴を駄目にしたり、家の前の植木鉢を何度も壊す。ブルドックの子犬でも持っていないかと聞かれた。番犬になるだけ犬のほうがマシなのだ。

「生憎ながら。癇癪なら持っています」

「叔父を殴り倒したのだろう、その細腕で。私が果たせなかったことをよくやってのけた」

 マイクロフトとの会話は始終がこのような調子で、一見しただけでは彼が重度の薬物依存に陥っているなどわからなかった。

 私は簡単な電報のあと、一週間目でようやく手紙を書き、教授に新しい連絡先と日常を知らせた。そのなかにまだ一度も注射の兆候は見られないと書き添える。月に一度状況を知らせてくれと言う短い内容が届いた。それ以上だとマイクロフトの関心を引いてしまうからだ。

 兄の元へ週末に出かけることのほかは、医者としての役割を少し果たした。

 ターナー夫人という新しい家政婦が来るころ、ここで臨時開業してもいいとマイクロフトが言った。丁重に断りを入れる。知人のツテで往診するのが自由なひと時を手に入れる唯一の方法だった。

「加治屋の長男が路地裏で殺害。二階のテラスで伯爵家の令嬢が恋人の力を借り馬車に細工。展示されている博物館の宝石は模造で警備員ではなく後から来た警察官が真犯人。最後は看守が黒幕」

 ある朝、三流新聞を読んでいたマイクロフトが、目につく記事の数々を口に出した。私に投げてよこす。「そんなに事件が? ひどい一日だな」

 新聞には他愛ないロンドンの日常が記されていた。書き物の助けになるようなことは書かれていない。からかっているのかと聞くと、マイクロフトはパイプをくわえた。葉巻の数が少ないからだ。

「君は観察力に欠けている。そこが欠点だよ、ワトスン君」


 予測した結末がタイムズの一面をすべて飾ったのは、彼の元を訪れて三ヶ月が経ったころだった。


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