戦場のワトスン
イギリスを出てからのいきさつは本に書いた通りである。
インドにつく前に第二アフガン戦争が始まった。山地の奥深くに行き連隊を移されて、私は負傷した。甘かろうが甘くなかろうが、死にたくなければ生き抜くしかない。
優しい嘘で自分を塗り固めた兄は、正気のまま人間性を失っている。親族に狂った者が多いが故に、私は早く戦場に行きたかった。物を考えてはいけない種類の男なのだ。恩師の言うことはたいていが理に適っている。
兄から離れたかった。
ペルシャワの本隊では腸チフスが流行っており、それに掛かれば高熱にやられて死ぬか、静養のための休暇を取れる可能性もあったのだが。私はその待遇と同じように、一日十一シリング六ペンスを軍からもらっている。
「ジザイル銃弾で肩を撃たれたことにしなさい」
訪ねた解剖室で、恩師が言った。
「脚は駄目だ」 私に背を向け、物言わぬ肉のかたまりを縫いつける。「肩なら医者としての能力が弱いと判断して、甘い値段で原稿を買い取ってくれる」
私はうなった。
もう少し金が要るからと、ちょっとした作り話を書き、それを読んで批評してもらったのだ。
「――ここに出てくるアーサーという名前の兄。これは君のお兄さんかね?」
違いますと言った。読んだ人間にはそう思われるのじゃないか、と恩師は答えた。
「それはありません。僕は本名でなく、アーサー・ドイルと名乗りますから」
「ドイル」恩師は首を振り、手帳を取り出す。「ゲール語の変形でドゥーガルが語源。『邪悪な異邦人』か」
学生の課題が積み重なった机で、私に背を向け書いた。紙を破く。几帳面な字で『CONAN』とあった。
「『賢明』を意味するケルト語だ。間に入れなさい、ワトスン君」
意味には露ほども惹かれなかったが、口の中で転がした音が好きだ。素直に礼を返した。私は帰りますと立ち上がる。恩師はまだだと手帳を向けた。
「なぜ主人公の名前がホームズなのだね?」
「ジョン・H・ワトスン」 私は微笑んだ。「どちらも僕の名前です。ジョン・ホームズとして呼ばれたことはないですが」
旧家は金持ちだった。無駄に贅沢をし、教養という名の役に立たぬ知識を植えつけ、遠い親戚という他人以下の存在から抑えこまれる。
父が生きていた子供時代の話だ。
握ってくれと伸ばされる、誰かの手が不快だった。病人の手はいずれ、力無く垂れ下がるのだから。ただ黙って握ったり離したり、相手に求めることのない行動なら受け入れることができた。
恩師は懐中時計を見て、時間だと言う。講義があるのだ。扉の前で、彼が出るのを遮った。恩師は作業着を脱ぎ、私の体に触れかけてやめた。血まみれの手袋を外す。
ねぎらうように肩をたたいた。「次作では私の名前を使いなさい。本人の許可は取れたぞ」
私は満足してうなずき。思い直して頭を横に振った。恩師は医学博士としての地位より、研究者としての名前が知られている。迂闊に死体になる役などには使えない。
「敵役になら」
「なるほど、それはいいアイディアだ」
彼は授業用の道具を私に持たせ、教室までつき合えと私を追い出した。背が高く鋭い顔立ち、追従したがる助手の多さ。悪の組織を作り上げれば見栄えがする。素早い歩き方に、追いかけるのがやっとだ。
教室の前で、恩師は黒い髪をひと撫でする。「ああ、ワトスン君。よかったら明日食事でも」
教材をすべて渡し、願ってもない幸運にうなずいた。
「光栄です、モリアーティ教授」