戦場のワトスン
兵士の輸送船から降りたったのは夜だ。望んでいた渦巻く霧は見えなかった。脚の傷は殆ど完治していたが、湿度の高い街では辛い。消耗した体を癒すのに、睡眠が必要だった。
手持ちの金を計算に入れ、辻馬車を拾う。
本当に空気のように自由な身であれば、私は迷うことなく持ってる金を賭博か女に費やしただろう。主義に反することであれ、戦場での幾つかの記憶を塗り替えるためなら、どんな行為も喜んでしたに違いない。
都会の汚泥に引き寄せられ、金を使い果たし、酒場で立っていたら昔の助手に会う――そんな出来事にも遭遇できたはずだった。
ロンドンの大学で医者になる勉強をしていた、その昔に遡って話そう。
兄は始終働いていた。私の知る限り、一時も休まずに。仕事は体を使ってできることをして、頭は私に任せると言った。
「できることをすればいいのだ。お前は俺よりここの出来が良い」兄は額を指で叩いた。「俺は馬鹿だからな。馬鹿なりにやるさ」
母がいたが、父は早くに死んでしまった。兄が父親のようなもので、私は必死さを隠して勉学に励んだ。財産はない。借家でも住める家があることには感謝していた。いつからか兄が深夜の三時に帰宅し、朝の五時に家を出るまでは。
徐々に家にいる時間は減り、それと共に兄は酒を飲み始めた。
飲める酒を飲み、酔っ払いはしないのだが、様子がおかしい。笑い声を無駄にあげる。それが唐突なものだから、家族である私と母にはわかった。
仕事がきついのかい、と母が聴いた。やることがたくさんあるのかい。なぜ家に居着かないのだい。
「親方がね」
兄はそれきり話さなかった。どこで日雇いをしているのか、尋ねても答えない。両手の指では数えきれぬほど職を変えてきたのに――二年も同じ所に勤めていることが気になった。
同じ週に、兄が自転車の窃盗犯として捕まったと、留置場に呼び出された。母が悲しむことを何故したんだ、と兄を責めた。
兄は焦点の合わない目で、「仕事場に行くのに間に合わないから」と言う。
「遅刻すると怒られる」
どんな職場なんだと聞く私に笑って、心配いらないとつぶやいた。「俺は馬鹿だから。できぬから怒られて当然なのだ」
異変は徐々に大きくなった。ある日髭も髪も全部剃って帰ってきた。
理由を聞くと、「親方が不潔だから剃れと言う」とつぶやく。感情の見せぬ眼差しが私を見たが、無言が続いた。
確かに不潔であった。
水風呂に入っても拭い去れない不潔さだった。その頃には満足に用も足せず、床を汚しても自分では拭こうとしない。シーツを剥がすと、どこから湧いたのか得体の知れぬ黒い虫が大量にいた。
誰に助けを求めるにしても、家の恥だと言う思いに手が出せず、私と母は手をこまねいた。私は医者の卵ではあったが、心まで医者ではなかったのだ。
帰宅した私は、その目はどうしたと言った。兄の耳から血が出ていた。兄は笑って、問題ない、何もないよと酒瓶を振った。 「お前にと、買ってきた。好きだろう?」
私は首を横に振った。
体のあちこちに打撲の跡が見えた。頭を撲られたらしく、帽子が血まみれになっている。母が泣き叫びながら赤いカフスを水で洗っていた。
赤い。赤いわけはないのに。
母の手を握ると、氷のように冷たかった。爪がぐにゃぐにゃになって、間が赤黒く染まっている。掌の皮膚が割れて、私は。
私はなぜ、何も気づかなかったのだろうと思った。
「お前には黙ってた。黙ってたのよ」
ああああああ、と叫んで、母は引き出しから兄の帽子だけでなく、下着を取り出した。上も下も黒く染まり、白い箇所はひとつもなかった。裁断鋏で切り裂かれ、判然としない物も大量にあった。
人間は小さくなるのだ。
病気の人間を診ていると、日々縮んでいくのがわかる。精神でも肉体でも病んだ者は同じだ。内臓のありかが透けて見えるほど、薄くなっていくのだ。
兄は死にかけていた。