戦場のワトスン
従軍して、最初に無くしたのは性的欲求だ。軍の中にいても性欲を保ち、男を相手に励む者がいたのは初めのうちだけだった。そのうち体力もつき、興味も何も失せてしまう。食糧が底をつき、捕虜だの敵兵だのを玩具にして遊んでる余裕も無くなった。
私などは屈強な兵士に囲まれれば小動物と同じ扱いで、幾度となく狙われもしたのだが。学生時代に培ったボクシングの心得と、将校を一発で殴り殺したという、意味のない噂のおかげで助かった。
私を前線に引っ張り込んだ上官は、隣で葉巻をくわえている。嫌な男だ。知れば知るほどそう思う。具体的には何ひとつ思い出したくないが。今日はその、上官になった男の話だ。
「怪我をしたか」
撃たれて三日経っていた。
ろくな応急処置もできない兵士に運ばれ、近くの駐屯地で手当てを受けた。高熱で覚えがない。上官は私のシャツをぺらりとめくり、呻いた。気持ちはわかる。痩せ細った自分の肋骨を見たとき、私も同じように呻いた。例えるなら肺病患者に近い。
「私を殴ったときも、君は薄い身体をしてたな。医者はもっと鍛えていい。なぜ軍医になった?」
開業資金を貯めるため。アルコール中毒の兄を、良い療養所に入れる金を得るためと話した。上官は頷きながら、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「私の甥も中毒だった。隣家で暮らして最期まで世話を診たがな。他人に預けるとは結構なことだ」
たまに世話をしたり、他人に近い関係で相手をするのとは、全く違うのだ。四六時中共にいて、愛する者の人格が変わりゆくところをただ見ていく。それがどれだけ苦しいことか、この男には想像出来ないに違いない。
甥が彼にとってどんな存在であれ、社会的責任はとらずにいられる立場だったのだろう。人に情を分け与える能力は使わずにいるようだ。
私が黙っていると、上官は呟いた。
「まあ、兄上にしたら君が死なずにいてくれたのは幸運だ。復帰できることを祈ろう」
憐れみのない言葉は耳を通り過ぎ、嘲りにしか聞こえない。暫く眠ろうと、適当に返事をする。腰を上げたので敬礼だけして、目を閉じた。一分も経たないと感じるのに、揺り起こされる。
「夕食ですよ、ワトスン先生」
看護婦の声に目を開けると、上官がまた座っていた。皿を受け取って、自分も食べ始める。患者食は貴重なのに、まずいと文句をつけて返す。
看護婦は突き刺すような目で見て、仕事に戻った。私はため息を吐いた。「何か用がありましたか」
「ドクター。君は帰国することになった」
この時の驚きといったらなかった。期待と喜びと不安。するべきことがなくなった嬉しさ。自由の代償は考えなかった。
何週間かかったかしれないが、怪我が治り、船の見送りには何人かの友人と患者、同僚と看護婦の他に、あの上官が来ていた。にこやかに握手の手を差し出すので、あったことは水に流して握り返すと、上官は笑いを大きくして言った。
「私も昔、医者になりたかった。ワトスン、今から勉強しても遅くはないか」
「人に対して、優位に立ちたい人間が就いていい仕事ではありません」
冗談が通じなかった。ムッとしたように眉をひそめ、その後思い直したのか苦笑を浮かべる。「私は――いや、君の言うとおりかもしれん」
命を大事になと言った彼は、温厚な私が盾突いた、唯一の人間となった。その後も順調に出世を重ねたが、へまをして辺境に飛ばされ、命拾いしたと聞いた。意味のない噂かもしれない。
私は祖国に向かう船の上。
ようやく希望に満ちた気分だった。