戦場のワトスン


 私立探偵の看板を掲げたのは、長かった冬が終わりを告げたころだ。執筆と共に開業資金を貯める元手にしようと企んだ。役に立ちそうな人物の協力も、しぶしぶながら得ることができた。

 マイクロフトは仮の名で活躍した。

 小説としてのホームズの名前は、その時期には人気がうなぎ登りで使いようがなかったし、本名では世間体と仕事の都合が悪い。依頼人のほとんどは適当な名前をでっちあげてくるので、その点に問題はなかった。彼自身は安楽椅子に重い体を乗せ、必要があれば私を冒険へ送り出す。

 そこが命に関わる場所であれば、共に行動することもあったが。

 なにしろその巨体では橋を一人で渡りきることさえ難しく、気づけば日々の散歩にお供がついたり、犯人を心臓が壊れるほど追い詰めて走ったりするうちに少しは――いや、ここは正直に言おう。

 彼の体重をおよそ半分以下まで絞りとったのは、ターナー夫人の料理の腕前が前任者ほどではなかったからである。

 グルメな彼の舌は独特な風味を受けつけなかった。以前の彼なら食べようとしなかったかもしれない。朝食のみこだわりのあるメニューにして、後は家政婦の好きにさせていた。

 ハドスン夫人の経営する下宿に移りたいと漏らしたこともある。本人に手紙ですげなく断られてからは、深夜に自ら料理の腕を上げようとするに留まった。その夜食の失敗作は私が平らげたせいで、いつの間にか体格も逆転したのだ。

 実際は七つの年齢差があるというのに、ホームズのほうがいくつか年下に見られる。

 強制的なダイエットのせいで依頼人にナメられることを気にした彼は、私を相手にボクシングの練習に励んだ。筋肉をつければ元の恰幅のよい肉体と威厳を取り戻せると信じていたのである。

 幾度も私にノックダウンされて鼻の骨を折るうちに、真横から見ると飛び抜けて高く見えるほど鼻が成長してしまった。最後の手段として伸ばした髭は、不格好なヤギ髭となってやめた。

 ワトスン、あまりいい加減なことを書くなと彼が言ったことがある。

「現実が小説に追いつく日も近い。あの変な名前で呼ばれるくらいなら、コカインにだって手を出すぞ」

 日に当たらない青白い顔のせいで、薬物中毒でまだ通る。

 かの親子の交流もささやかではあるが続いている。食事の席では私を間に挟むが。教授の名前の使用許可がある話をすると、叔父と共に徹底的に叩きのめされる物語にしろと私を諭した。それはマイクロフトの名誉にも関わってくるのだが。

 新たな仮名を考えるより、彼の父親へ毎回嫌がらせをするほうが性に合ったのだろう。

 名探偵モリアーティとして、今日も気に入りのパイプや帽子や注射に代わる玩具の小道具で遊んでいる彼と、医者のワトスンに興味を持つ者はいないのだから。私は心安らかに本名を名乗ろう。





 すべての真実の物語は我々と、ブルドッグのアーサーだけが知っているのだ。





End.
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