戦場のワトスン


 帰り際にタイムズを購入して、広告を見つめながら歩いた。

 マイクロフトと教授の間に何があるのか、私には見当もつかない。彼らにはモラン大佐という繋がりのほか、教師と教え子であったとしか聞いていないのだ。教授を問い詰めて答えが得られるとは思えなかった。途中の道すがら電報を打って送った。

 明日の予約はキャンセルだ。

 たとえそれが滅多に見られぬ犯罪現場の検証に同行することだとしても。私には優先すべきものがあった。医師としての代わりは別にもいるが、マイクロフトのそばにいられるのは私だけなのだ。

 機嫌をとるのに何を買っていこう。酒か? 煙草か?

 花売りの花束を購入しかけて、いくらなんでもと思いとどまった。自分より縦も横も大きな巨漢の男を相手に、花はない。花はないだろう。

 結局、酒と煙草と花束と五種類の新聞を抱えることになった。女性にも一度にここまで貢いだことはない。

 彼は私にとって、大事な人なのだ。

 家にたどり着いたころは夜更けも近づいていた。今から食事に出ることは、ターナー夫人の手前できないだろう。数日ですっかり懐いた子犬が出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ。あ、お客さまが」

「私にかい?」

 ターナー夫人は口を濁して上を見上げた。愚図なメイドがスカートを摘み、足早におりてくる。「ひどくお怒りのようですわ。あんなモランさま初めて」

 私は帽子も持ち物もすべて彼女たちに手渡して、外套も脱がずに階段を駆け上がった。

 怒声が聞こえる。

 叩きもせずに居間の扉を開けた。見覚えのある後ろ姿がこちらに背を向け立っている。あの冷静なマイクロフトが、その人物を口汚く罵っていた。

 私は言った。「モリアーティ教授、どうして……」

「いま帰るところだった。通してくれ、ワトスン君」

 二度と来るなとマイクロフトが言った。その手に握られているモノに気づき、愕然とする。

 拳銃だった。撃鉄をあげている。

 とっさに間へ割って入る。その瞬間、真っ赤だったマイクロフトの顔色は音をたてるようにして白くなった。

「マイクロフト! 正気か」

「ああ、ワトスン。僕は正気だとも。そこをどいて、奴のために僕が――私が手を汚すのを許してほしい」

 押し殺した激情で、歯が鳴っている。私は黙ったまま壁の方を向いている教授と、彼を見比べた。

 空気が冷えた。

 私は銃口の前に立ちながら、教授に向かって顎を引いた。「帰ってください。今日の非礼をお詫びします――」

「ワトスン!」

 教授は踵を返して部屋の扉を閉めた。足音が遠ざかるのを充分確認して、振り返る。震える手で銃を握るマイクロフトが、中央に立っていた。灰色の目がなぜと聞き返すのに、ゆっくりと囁く。

「君を犯罪者にはできない」

 放心状態で銃を下ろした。

 表で馬車が走り去る音を聞き、ターナー夫人がお茶を入れ直しましょうと扉越しにかける声を断る。静けさが戻ると、彼の体はソファに沈んだ。そっと近づいて手を取り、銃を互いの手の届かぬ所へとしまう。マイクロフトが背けた頭を、片腕で抱いた。

「すまない」ああワトスン、すまないと言った。すがりつくように襟首を掴む。

 暖炉の火花が飛び散る音だけで、静寂が過ぎた。マイクロフトはやがて呟いた。

「モラン家に養子に出されたのは五歳だった。叔父は昔からあの調子だが、父はよく可愛がってくれたよ。モリアーティ教授は……父と同級で」

 私はその先が理解できて促すように髪をすいた。ジェームズ・モリアーティはと彼は繰り返し、堪えきれずに涙を零し。


 僕の実の父親だ、と言った。


13/16ページ
スキ