戦場のワトスン
教授は私が非常に鈍感であることを承知していた。マイクロフトは薬などやっていない。先入観を与えて、彼が何を言おうと血迷っている風にしか見えなくさせたかったのだろう。その事実に思い当たったのは随分後になってからだった。
「ジョン」
兄が虚ろな目のまま言った。私は曖昧な返事を返し、懲りもせず持ってきたナイフでリンゴを剥いている。療養所で唯一快復の兆しを見せている薬物依存症の男が近づいてきたので、ばれないように半分渡した。
兄は最初の一声から十五分くらいして、さらに言った。「――彼は」
『彼』というのがマイクロフトだと、気づくのに少しかかる。
「今日は来ないよ。心配いらない」
私は垂れ下がった皮をどうするかに頭を悩ませていた。ポケットに突っ込めば芳醇な薫りで見つかってしまう。兄は手をにゅっと伸ばして、私のひざ頭を捉えた。そんなことは初めてだった。
「会いたくないと言ったことがあるか」
兄は正気を無くしたわけではない。理解していたはずが、どこかでむしろそうあってほしいと願っていた。
特別な配慮が必要なくなるからだ。
母の場合は口も利けぬほどに弱り、最後は自分が誰であるかもよくわかっていなかった。私は普段の母に話かけるようにして、寄り添った。それは思った以上に長い時間をかけて私を蝕み、辛く過酷な、どの環境よりも――。
私は膝に置かれた手を、果汁に濡れた手で握りしめた。「怒らせてしまったんだ――すまない。次は必ず」
「俺のことはいい」
帰れ、とリンゴを取った。
「おまえだ。ジョン、おまえにはあの人が必要だ」
俺にではなく、と言った。
「アーサー」
「――帰れ」
ジョニー、帰れと幾度か繰り返した。私はその呼び名はやめてくれと笑った。兄は首を激しく横に振り、帰ってあの人に謝れ、と囁く。焦点の合った真剣な眼差しを見て、私は手が震えた。
「怒らせてしまったんだよ」
「怒ってなどいるものか。俺にはわかる」
兄はリンゴを一口かじり、さあ、と私を促した。
「待ってる」
私が振り返ると、もうよそを向いて閉まらぬ口を動かしていた。
待ってる。新しくできた友人をか?
それとも。薄情な弟をか。
私は療養所の前で馬車を止まらせた。マイクロフトと住むようになってから、財布は少し楽になっている。行きにはあったが帰りはなくしたものの名残を舐めた。
戦場より生き延び、人間性を失った私に、暖かさを教えてくれたのは彼だ。
砂塵に紛れて新聞が飛んでいる。ふとそちらを見て、私は大声で叫んだ。「降ろしてくれ」
「旦那。まだいくらも」
「早く!」
ステッキを掴んでもと来た道を引き返した。看護師が引き止めようとするのも押さえて、兄の所へ急ぐ。先程のまま広場で椅子に座り、残りのリンゴも綺麗に食べ終わっていた。息を切らせる私を見上げた。どうした、ともなんだ、とも言わない。
それはすべて、マイクロフトが代わりにやってくれていたからだ。
私は鞄から本を取り出した。毛布をかけた兄の足に置く。「読んでくれ。アーサー・コナン・ドイルだ」
兄は表紙と私を比べると、うなずいた。私は監視員に手を見せて去った。
次はもう振り返らなかった。