戦場のワトスン
冬支度の用意も落ち着いたころになって、事件は起きた。
マイクロフトと我が兄との最初の対面は数分だった。その理由は兄がほとんど寝ていたからなのだが。それから半年ほど私に同行して療養所を訪ねるうちに、彼らは驚くほど親密になっていた。
とはいっても、どちらも膝を突き合わせて椅子に座っているだけだ。よく暴れるようになっていた兄が、マイクロフトが傍にいるだけでおとなしくしていること自体、奇跡のようなものだった。
私はその間に教授に酷評された『緋色の研究』をところどころ書き直して雑誌社に売り込み、首尾よくクリスマスの特別号に載せてもらえると決まった。その日のお祝いは、故郷に帰ってから一番派手だった。
丸一日中シャンパンを開け、
陽気にヴァイオリンを弾き、
ターナー夫人とダンスをし、
おまけに向かいのブルドッグ――最初に外で吠えられた犬だ――が子犬を産んだので、酔った勢いで貰ってきてしまう始末。
マイクロフトは呆れ顔で先に刷り上がった本を読み、私が急に静かになって反応を待つと笑った。
「別に何も言いやしない」
「それは困る。次に活かしたいんだ」
彼は鼻眼鏡を引き出しから取るようメイドに指示して、つっかえた何かで引き出しが動かないにもかかわらず、無理に引っ張るともういいと言った。
自分のベストからルーペを出すと、また懐中時計の金貨が目に止まる。彼はなぜかそれを常に身につけていたが、どういういきさつの物であるかは教えてくれなかった。
「恋愛話が長いな――これは君の実体験なのかね」
「まさか。たしかに僕は従軍期間も青春を無駄には過ごしませんでしたが、いくらなんでも」
女性は得意とするところだ。ロマンスの味つけが過剰すぎる点については、教授から最も注意を受けた。ご丁寧にいつもの手紙と共に感想を送付されていたので、嫌というほど理解している。職業として考えるなら、甘んじて受けねばならぬ洗礼なのだ。
私と教授の文通は続いていたが、肝心の目的はもう半ば忘れかけていた。マイクロフトは身近に麻薬を置いている気配さえなかった。一度きりではあるが、彼の寝室をばれないように覗いたことさえあったのだ。
他人の持ち物を漁る趣味はない。兄の日記を盗み見ようとした時のように、罪悪感を覚えた。どんな小さな場所にでも、依存症の人間は上手に対象を隠す。賭博に嵌まっていれば通帳をクッションの中に。酒瓶は長靴。注射器や麻薬の瓶は割れるので、分厚い書籍の体裁で本棚が怪しい。
全く出てこない。ひょっとしてと家中を見回ったが、ハツカネズミの死体しか発見できなかった。
鋭いマイクロフトのことである。私の不審な行動に気づき、銀行の貸し金庫を借りている可能性も捨て切れない。それが結論だった。
凝視したのをどう捉えたのか、彼は咳ばらいをした。「よければ明後日にでも御馳走しよう。外で」
「明後日は……教授と約束が」
マイクロフトは顔をしかめた。わずかの期間で、彼がモリアーティ教授をこころよく思っていないこともわかっている。
私には疑問だった。「どうして教授を毛嫌いするんです?」
「腹積もりが気に食わないだけだ。あの男とは接点を持ちたくない――」
よほどの事情があると考えてしかるべきだった。しかし二人の尊敬すべき人間が対立しているというのも放ってはおけない。
私は慎重に言葉を選ぶべきだった。いまさらもう遅いが。
「教授は素晴らしい功績を残した人だ。二十一歳で書き上げた数学の論文は……マイクロフト、彼はあなたを心配して僕を」
マイクロフトは血相を変え、ナプキンを叩きつけて言った。
「勝手にしたまえ! 私は奴を信用してない」
それがおそらく初めての喧嘩だった。彼は翌日、その週の兄の面会にもついてこないほどに怒り、部屋から出ようとしなかったのだ。私は呆気に取られ、足元にじゃれつく子犬と共に残された。
マイクロフトが残したオリーブをつつきながら反省するしかなかった。