戦場のワトスン
マイクロフトの不思議な能力を目にしてから、私が彼を見る目は変わった。更に奇妙なことに、どれだけ共に生活しても彼が薬を自分の腕に刺す現場には会えない。
教授が焦れて何か言ってくるかと思ったが、研究室に足を運んでもいつもの通り出迎えてくれるだけだった。
夕飯の席でその話題を出すと、マイクロフトは教授と最後に会ったのは何年も前だと話した。あなたのことを教えてくれたのは彼だと食い下がる。マイクロフトは知っていると答え、繋がりのすべては電報なのだと続けた。
「一方的に向こうが送ってくるのだ」
「教授はあなたのことを按じていました」
「叔父貴の策略にはかからん。教授もしかりだ。君はいろいろと勘違いをしている――しかしそれを今言っても無駄だろう」
腑に落ちない言い方には飽き飽きした。短い返事で遠回しな口調をするのはモリアーティ教授だけではないのか。
蚊帳の外に追いやられた気分でふて腐れていると、彼は上質のブランデーを私のために開けてくれた。「毒でも入っていなければいいが。教授から誕生日の贈り物だ」
「教えてくだされば僕も何か用意したのに……」
「君のだよ。ワトスン、その言葉をそのまま返そう」
すっかり忘れていた。ある程度の年齢になると、その儀式は形だけのものになる。
相変わらず上手いとは言い難いヴァイオリンで聴くバースデイの曲が、妙な気持ちで私を包んだ。新しい家政婦が、夜も更けた室内に響く騒音に、金切り声をあげた。彼は弓を下ろした。
「お兄さんはどうしている」
「――あまり具合もよくないようで」
「一度会ってみたい」
私は驚きを隠せなかった。グラスに注ぐはずが真新しいテーブルクロスにかけてしまう。思えばターナー夫人も特別な日に配慮してくれたわけだ。
髭を撫でさすり、答えに窮した。彼はなぜ私が苦手とする距離をつめてこようとするのだろう。マイクロフト自身も人好きであるとは到底考えられないのだが。
彼はじっと空中を見つめて、ため息をついた。こめかみに手を当てると、ナプキンを手渡す。私の椅子の背に指をかけ、自分の体重を支えた。
「困らせたなら忘れてくれたまえ。誕生日おめでとう、ワトスン」
彼は自分の部屋に戻り、私は向かいの部屋に戻った。途中で鉢合わせたターナー夫人にクロスの詫びをする。食欲旺盛なマイクロフトがすでに何枚も駄目にしていたので、一枚くらい先生の仕業でも黙っていればいいのですと言われた。
ベッドに腰掛け、手元の写真立てを引き寄せる。家族揃ったものはこれ一枚であった。
やつれる前の兄だ。
倒れる前の父だ。
美しかったころの母だ。
私は言い知れぬ不安に目をつぶり、幼い自分の顔と一緒にそれを伏せた。
マイクロフトの部屋からまだ音が聴こえる。珍しく様になっていると耳を傾けたが、いきなり調子が外れて含み笑いをした。立ち上がり、部屋の扉をノックする。彼は部屋着を羽織った大きな体で悲しげに立ちすくんでいた。
「貸してください」
一瞬暗がりで目元が緩む。何も言わずにヴァイオリンを渡された。松脂をつけすぎだと文句を言いそうになるが、想像した以上の贅沢品を手にすると、我慢できずに掻き鳴らした。
戦場で傷つけたのが肩でなくてよかった。私は遠い日の思い出を偲びながら数曲弾いた。
あの頃手にしたのはクレモナ製のアマティだったが、いかに手に入れたものかマイクロフトの楽器はストラディバリウスであり、何度か触れたいと感じていたのだ。私は封印した過去を消すため、音楽に関してまるきり無知であると偽ってきた。
開け放したままの扉の外では家政婦とメイドが居て、拍手を浴びる恰好となった。
マイクロフトは叩いていた手を下ろし、弦を持つ私の手を握った。「弾けるのだと指蛸でわかっていた。耳障りにしかならない私ではなく、君の腕にこそこの楽器は相応しい」
誕生日のプレゼントは懐かしの楽器となった。大喜びの女性二人を部屋から追い出すと、私はマイクロフトを正面にした。
「次の土曜日に兄を見舞いますので」
彼はキョトンとして、賄賂が効いたかな、と戸惑うようにヴァイオリンを見た。
違うのだ。そうではない。
イギリスに戻り、マイクロフトと出会えたことで、私は今後何があっても――、
明るい時代の兄だけを覚えていられそうな気がした。