探偵とあのひと
探偵が忘れることのない唯一の女性について話すとき、私の声は一段と低くなった。
物思いに耽りバイオリンを爪弾く。写真が引き出しのいつもの位置にあるか頭の中で確認する。一連の視線は、彼自身が知らぬふりをし続けた感情に起因するものだ。しかしそれは著作にも書いたように――恋愛ではなかった。
書くほどでもない軽い事件が終わった日に、手紙が届いた。彼は丸一日それには触れず、楽器を抱いてソファに寝そべっていた。
「あの人ならどうしただろうね」
くわえ煙草の火が消えていることにも気づかない。私は静かに燃える暖炉の向こう側を火掻き棒で探って、口から漏れるため息の音を消した。
「今回の被害者が暴力的な性格であることは誰の目にも明らかだった。それでも依頼人は結局は彼を選んだ」
ホームズは空中に最後の煙を吐き出すと、悪習の根元ではなく楽器のほうを手放した。
「――平凡だが穏やかに彼女を愛した男には目もくれずに」
女という人種に対して僕が持つ不信感は一層深まったと言えるね、と呟く。私は相槌をうってその独白につきあった。
椅子に腰かける前にちらりと盗み見た彼の横顔には、郷愁により深い皺が刻みこまれている。
一言で何かを崩せそうな危うさがあった。
訃報が届いたのは昨夜遅くのことだ。今朝の新聞には既に世間を騒がした歌姫の生前の功績が記されていた。
あの女性はもういない。
「ワトスン。口をつぐむ時間でもないよ。耳障りな音楽もようやく終わった」
彼にしては随分と優しい。思い出が彼を優しくするのだ。彼の美徳をを引き出す存在が羨ましいと同時に、美しいあの人の面影に声を失った。
いつの間に後ろに立ったのか。
膝に置かれた女の写真をのけることができない。翳った視界に彼を見上げる勇気さえ持たなかった。
「火が消えている」
顔を伏せたまま机のマッチを取り上げたが、煙草を捉えた彼の指先が私の顎にかけられる。反らした目線をすくうように息が頬を掠めた。
静かな灰色の眼差しが私を捕らえる。「気づいていたのだ、と言ったら?」
「実験中の薬品のせいで湿度が酷いからね」
煙草の話ではないと苛立つ声をあげる。彼らしくもない態度は神経を逆なでした。立ち上がりかけても両手が肘掛けを押さえる。めくり上げた腕に針の跡が痛々しい。
「あの人を逃がした理由が知りたい」
永遠に騙せるとは思っていなかった。言葉が返せない。
「ホームズ」
「最初にアドラーの名前を聞いたときの君の反応で気づくべきだった。いつの相手なのだ?」
嘘が得意ではない自覚もあった。かろうじて口を開く。
「何の話かわからない」
彼はため息をついた。「一介の私立探偵に泡を吹かすためだけに、危険を犯すような女性ではなかった。動機が弱すぎる。理由は明らかだ」
ホームズは間を置かずに一息で言った。最後の挨拶をしにきたのだろう、と。
「――過去の男にね」
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