花の名前は誰も知らない


 ラウールは十七だったが実際より幼く見えた。男は四十より前だったろうが、明らかに歳より老けて見えた。

 父への思慕から歳の近い男を助けた以外には、他に理由もなかった故に――仕えていた男を裏切ったことについては口を割らなかった。自分がどこの誰かということもだ。そのときラウールはまだラウール・ダンドレジー以外の誰でもなかったから、事情を説明しようにも何も思いつかなかった。

「四歳のときポウからモンペリエに移り住み、しばらくそこで育った。フランス人の従兄弟が二人いる」

 荷馬車に揺られながら、探偵は話した。ではそこへ行ってはどうですかと聞いたが、彼はひどく疲れているようだった。滝壺での格闘の後、モラン大佐を振り切って野宿している彼を拾い、逃亡を助けた。自分の何を信用したかは知らないが、同種の空気を嗅ぎ付けたのは間違いなかった。

 マイリンゲンでの愚かしい行いを詫びると、探偵は少し黙った。「モリアーティーという男は若い時分、私の家庭教師だった――」

 探偵の言葉は思わぬものだったが、彼は眉根を寄せるとそれ以上を避けた。吹きすさぶ風に煽られた髪が、夕陽に照り返して明るく光る。探偵の髪は黒ではなく限りなく黒に近い濃い茶の髪だとラウールは気づいた。彼はいつものようにその髪を撫でつけようとして、変装もなしに逃亡を続けることはできないことを思い出したらしかった。

「君の肌を白くしている、その白粉はまだ持っているかね」

 ラウールは驚きを悟られないように、手荷物から化粧品一式を取り出した。スイス人の少年に化けることはたやすいことではなかった。これだけ間近で観察されれば、見破られても仕方ない。探偵はでこぼこ道でも難なくメイクを済ませ、日が完全に落ちて宿屋につけば、どこからどう見てもスイスから来た英国人の旅行客ではなく、英国から来たスイス人の旅行客になっていた。ラウールはよくよく観察したが、変装の粗を探すのはやめた。とうてい無理なことだからだ。

 荷馬車に乗せてくれた農家の夫婦に礼をいうと、ラウールはおとなしく彼の後ろをついていった。乗せたはずの男とは違う人間がいつの間にか乗っていることに、彼らは目を白黒させて英国人を探していた。しばらく首を傾げて走り去る。イギリス人なら日常の怪奇で興奮するような出来事も、フランス人には些末な勘違いで通ってしまうのだ。

 ラウールは当然のように探偵の荷物も持った。着替えた服はどこかで捨てなければならない。足がつく前に焼き捨てるにしても、まだ難しい時間だった。宿屋の主人には探偵が応対した。たどたどしいフランス語だった。

「二人で一部屋。ええ。彼は私の息子で――」

 ラウールは待った。まだ農場を出ていないことが気にかかる。教授の犯罪組織はどんなに閑散とした田舎でもその手を伸ばし探偵を追いつめた。数が少なくなっていたのは事実だが、教授が死んだ今でも追手はいなくならない。もっと都会まで彼を誘導することが先決だ。

「部屋数が少ない上に他の客もいない。逃げ場もなさそうだから、離れの厩戸を貸してくれるよう頼んだ」探偵の耳打ちにラウールは顔をあげた。流暢なスイスドイツ語だった。「私といることで君の身を危険に晒すことはできない。心配ならここで馬を借りて君ひとりで」

「お役に立ちませんか」

 同じ言語で返した。深い意味で言った言葉ではなかったが、探偵は驚きにわずかに目を開いた。鋭い視線が一瞬和らぐのをラウールは見逃さなかった。優しい灰色の眼差し。まばゆい光をはなつ光彩を、しっかりと見返す。二人だと聞けば追手の目をくらますことができる。

「とんでもない。君がいればどれだけ助かることか」

「では一緒にいきます。お父さん」

 自らはなった呼び方におののいた。それは神聖な呼び方だった。言語は違えど変わらない。痩身の探偵に父との共通点はそれほどなかった。どちらも拳闘をしたが探偵の胸は薄く、幅の広かった肩もスイス人を装っている今は下がって小さく見えた。

 探偵はまるで本当の親子がするようにラウールの背中に手を置き、主人の案内についていった。ラウールは自然とそれを受け入れていた。警戒でその身を硬くすることもない。


 なぜ彼を助けたのかはわからない。


 煙草だけは気をつけてくれと言い残し、主人は去った。探偵とラウールは水桶で交互に互いの化粧を一度落とした。白粉に含まれる安い鉛が原因の病は、各地で認識されはじめていた。崖をよじ登る最中につけたのであろう傷を慎重に避ける。消毒液を垂らすと少し顔をしかめた。目立つガーゼは使用できない。すみずみを拭ううちに、毛穴をふさぐ点が気になる。シミだと気づくまで擦り続け、一点だけ赤くなった。

「……すみません」

「君にもそのうちできる」

 探偵は憮然としたが、ラウールはそこを親指で撫でた。あぐらをかいた身体を割って、膝立ちで唇をつける。舌で舐めればざらついた肌が歳の差を思い出させた。探偵は抵抗せず、ラウールの臀を片手で引き寄せた。少年はそのまま背中にしがみつき、探偵の首筋に自分の隆起が当たるのを感じて唾を飲み込んだ。

「……っ」

「男が欲しいのか」探偵は言った。「教授のところでどんな躾を受けたのか知らないが、選ぶ相手を間違えたな。私は今の君の手にはあまるよ」

 今の、という意味を正確には受け取れなかった。飼い犬にしてもらえるかと思って、と囁けば堪えきれなかったのか含み笑いをした。股間に寄せられた鼻の形に思わず艶かしい息を吐く。下を脱がされるのに協力しながら、ついぞ得たことのない妙な気持ちに蓋をした。男の側では女しか知らない自分がいずれ、抱く側に回ることもあるのかもしれないと。

 探偵は自分と同じ匂いを発していた。教育された性の匂いだ。

 勃起した若い屹立は弄られなかった。慣らす間は淡々と息を交わした。かさいだ指を口に差し入れても、服に染みついた汗のべたつきが不快で脱いでも、ほとんど何も言わない。高まる熱に自分ばかりが苦しく堪えているのではないかと、宛がわれた牡を感じるまで気が気ではなかった。震えが全身を駆け巡る。

 望みのものはなかなか挿入されなかった。入口付近で欲望を塗りつけられるばかりだ。ラウールはもどかしさに身をよじったが、焦らなかった。探偵は後ろから少年を抱きすくめたまま、荒い息を耳に吹き込んで少し笑った。

「うまく挿入らない。出番が少ないせいで緊張しているようだな――これは難問だ」

 喜ばせるためだけの嘘かもしれない。すでに弛緩している脚を更に開かせるためだけかもしれない。何度言い聞かせても落ち着きをなくした感情は騙せなかった。少年は身を引き離して、探偵の胸に手をつき覆い被さった。

 濡れそぼった己のものを隠しながら、背中を反らせた。血管の浮き出る怒張に自ら後ろの穴を擦りつけると、探偵も同じように腰を高めて動かした。先端が手違いのように挿入りかけるが、ラウールが腰を下ろそうとすると引いてしまう。幾度もそれを繰り返しているうちに、やはりわざとなのだと理解した。

 太ももに置かれた手が内側を撫で上げる。ちいさな刺激が射精感では得られない悦びを少年の身体に与え、そのまま隠していた手を握られた。「――おいで」

 ゆっくりとほぐれた中に、ようやく彼を納める。つっかえる度に呼吸を深め、拳を当てて天を仰いだ。質量は思った以上に大きな存在感を示していた。言葉と手に誘われるように身体を再度屈め、じっとこちらを見つめる目だけに集中しながら、ことを進めた。体内にすべてを納める。みっちりとした圧迫感で、声も出せずに脚が緊張した。

 動かせない。痛みではなく、弾けそうな屹立が我慢しきれず涙を流していた。探偵は慎重に指先でラウールの睾丸を弄ったが、過剰に敏感になったそれは投身まで急速に熱を噴き上げ、今にも噴火しそうな色に変わった。探偵は繋いでいたほうの手を離した。

 戯れに優しさが加わり、胸の突起を撫で始める乾いた指に喘いだ。

 ラウールは恥ずかしさから嗚咽した。余裕を無くした自分を見られるのは初めてだった。教授と寝たこともあったが、冷えた性交はただの肉体的な応酬に終始していた。こんなやり方は知らない。父とのそれも、生きてきた他の誰ともしたことがない。

「なんと呼べばいい」

 締め付けられて自分も動きたいはずなのだが、ラウールが落ち着きを取り戻すのを待っている。「貴方の……好きな、名前で」

 律動が開始されると、それ以上は応えられなかった。筋肉の打ちつけが骨まで響く。小刻みに揺れながら更に奥まで呑み込んだ。快楽より切なさが勝った。懐かしい記憶と、手の届かぬものへの執着だ。一番親しい場所で捕らえていても、探偵の心はどこにもないのは明らかだった。

 高らかに啼いた口に親指が差し込まれる。むしゃぶりついて幾度か噛んだ。下からの大きな突きでラウールが一度放つと、顔に受けた白濁を旨そうに舐めて探偵の頬が紅潮した。収縮する後控が気持ちよかったのだろう。堪えるように寄せられた眉が歓喜に歪む。拡張された内壁からの要求で、ラウールの若い雄牛はまた頭を上げた。

「ぅあ」

 半勃ちの頭を扱きながら、探偵が身体を入れ替えた。繋がったまま擦りあげられた一点のせいで呼吸が早まる。集中的に激しい突きが襲い、土に押さえつけられた肩が悲鳴をあげるのも構わずに臀を振った。期待よりずっと豊かな抽挿に焦らされ、無我夢中だった。

 連続した波をやり過ごす。射精なしに少し逝くと、緩慢な動きがまた強くなる。蕩ける後ろとに硬いままの前の差がつらい。指で押さえた先を離してくれと訴えたが、先に逝ったことを怒っているのか、今度は解放されなかった。

「……んぁっ」

 揉みしだかれた薄い臀のせいで、接触が深まる。下腹部への重い打撃は続いた。男の熱を皮膚で感じ、背中越しにかかる汗と接合部の卑猥な音に気をやる。握られたほうは痛みで膨張しきっていた。探偵の手を押さえた。首筋を吸う強い唇にがくがくと震えた。

 小刻みな突きが一瞬止まり、油断したところを断続的に襲われる。離された途端に吹き出した。生暖かなほとばしりは外側で受けた。小飼の犬になる承諾の代わりに後ろから口づけを得て、そこで初めて新しい主人から名前を与えられた。響きのいい名前が気に入り、少年はそれを何度もくちずさんだ。


 アルセーヌ――アルセーヌ――。


End.
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