Face-off

 夜も深まり警察署を出ると、教授が私を待っていた。杖の先がついと道の向こうを示す。

 別行動の行き先をまだ聞いていなかった私は、口を開きかけた。しかし教授が早かった。「妙だと思わんかね。旅行着に鹿撃ち帽の男に挨拶されたぞ。鞄はないし、足を向けたのも駅の方角ではなかった」

「そういう気分なんでしょう。あるいは何かの同盟の集まりで相手を間違えたとか。教授、それより大変なことが起きたんですよ」

 教授は片眉をあげた。「被疑者の一人が死んだことか」

 私はびくりとした。さすがに気味が悪い。心霊の類いを信じたことはないが、ベル教授の手法はそれと似た者があった。

「人数が出そろう前に遺書を遺して死んだと見える。ドイル。帰るぞ」

「ええ……ええ?」

 わけもわからず戸惑う私の前をずんずんと歩く。教授の反応はあっさりしたものだった。宿屋の方角に脚を向けるので、私は慌てた。

「教授。事件の顛末を知りたくはないんですか」

「顛末も何も」教授はふぅとため息を吐いた。「私が今日どこにいたかわかるか、ドイル君」

「事件を調べに現場へ行くとおっしゃったじゃないですか。ボケるには少し早すぎませんか」

「――パブで酒を呑んでいたのだ」教授は眉をあげた。「顔が真っ赤だぞ。ひょっとして君も飲んでいたのかね」

 私は耐えた。

「自分が引き受けた仕事は私に押しつけて自分は酒場ですって?」

 教授は自分の大きすぎる頭をもてあましている節があり、一般人に毛の生えた程度の私の思考回路と反応が、しばらく理解できないようだった。深呼吸して情報を整理する。

「そこだよ、ドイル君。私は引き受けてはいないのだ。更にいうなら今日はじめてヤードを訪れた。ここで話し続けるのは都合が悪い。腕を貸してくれ」

 私は教授を無視して、彼の腕を後ろから組んで歩き始めた。教授は怒らなかったが、私の頑なな様子にはあきれたようだった。

「どうぞ。話してください」

「よかろう。まずは事件の顛末だ。夫を殺害した若い妻が自ら命を断った。さかのぼれば三日前、彼女は夫の官能的な部分を一心不乱に開拓していた」

「そうですね、官能的な……」私は立ちどまった。

「襞の奥だ。ドイル歩け。どこで誰が聞いているか」

「――冗談ですよね」私は歩を速めた。

 教授は手を組んでいる私の腕をそっと押さえて微笑んだ。「人体の最も感じやすい場所を楽しんでいるのは、私たちだけではないということだ」

「よしてください。私は別に、性欲解消のために貴方のところへ来ているわけでは」

 教授は私を路地裏へ引き込んだ。たくさんの浮浪者が階段際に座っているが、気にも止めずに空き家らしい家屋に入る。「教授?」

 扉を杖の柄で閉め、私の体を反転させる。唇はほとんど同じ高さで与えられた。驚きを隠すことはできなかった。これも何かの妄想の続きだろうか。私は気を遠くにやりながら、半ば呆然と教授の舌を味わった。

「ん……ぅん……」

 鼻息が荒い。軽く離れると体液の繋がりが薄暗がりできらりと光り、角度を変えてまた続きをやった。ほとんど目を閉じている間に壁際まで追いやられる。私の外套を分け入った指が、上着やベスト下に差しこまれ筋肉の形をなぞってきた。

「ぁ……」

「情欲にまみれているほうが、私には好都合だよ」

 耳から首筋におりていく濡れた唇が、小さな音を立てて私を翻弄した。厚い皮膚の下では、血管がドクドクと脈打っている。ここまで積極的に誘惑されたのは初めてのことで、私は理性をフル動員して彼をもぎはなした。

「……これ以上は」

「降参するには約束が必要だ」

 私は涼しい顔をして至近距離で淡く揺らめく教授の眼差しを、静かに受けとめた。「聞かせてください」

「これから私が言う結論に腹を立てないこと。腹を立てても仕返しをしようなどとは計画しないことだ」

「どういう意味か全くわかりません」薄く冷たく乾いた唇のことだけに視線を集めたが、私の一部は脳内に書き起こす予定の原稿枚数を数えていた。「降参です。教えてください」

「先ほどいったことを誓ってからだ」

「……」

「ドイル」

「了解しました。続けてください」

 教授は頭を横にふった。「理解したとはとても思えないが、仕方あるまい。君に電報を出した理由さえ私は話さなかった」

「助手が必要だったんでしょう。殺人事件が起きたから」私は自分でもわかるほど憮然とした。

「助手……君は自分の役割を過小評価しすぎなのだ。一人の医師として私の手元から当に離れてしまった君を、どうして助手扱いしなければいかんのだね」

 講義中でさえ思い出して心奮えるような相手は、私にとって君ひとりだと言うのに――と彼は応じた。

 私は熱くなった。体ではなく心がだ。

「よく聞こえませんでした。もう一度」

「電報の話が先だ」教授はいった。「ドイル君。私は最初の電報で、すでに今の状況の半分までは掴めていた。心して聞いてくれ」

「愛の告白なら是非とも聞かせていただきましょう」

 教授は額を押さえてしばらく後ろを向いたが、振り返るとまっすぐ私を見た。「きみを愛している。その馬鹿馬鹿しいおちゃらけた言動さえ――」

 なければな、と続くはずだった頬をわしづかんで音を立ててキスをした。強引さは若さ故の特権である。

「僕が好きですか」

「私宛の手紙には、今回の事件について警察に協力してほしいという内容が書かれてあった。差出人はもちろんレストレード警部だ」

「僕がいないと困りますか」

「私はそのときもうすでに、君に電報を打った後だった。君が着いて何処へ行き、何を食べ、何を話すかまで予定していたのに、その足でここまで来ることになった。不機嫌に見えたなら、すべてはその手紙のせいだ」

「僕がどれだけ貴方を愛してきたかご存知ですか。学生時代から、ずっと」

 教授は首を横に振った。「ずっと知っていて知らぬふりを通してきた。この気持ちが君にわかるか」

 現状のことは頭から吹き飛ばし、私は教授の体をそっと抱きしめた。

 離れている間に互いが遠くに感じるのはよくあることだ。近くに居たときは気持ちを知らず、もっとも長く接していたのに気づけなかった。教授の心は、私の元にずっとあったのだ。

 体が離れていようと、心はひとつだった。

「――まだ言葉が必要かね」

 私は微笑んだ。「また必要になったら呼んでください。愛を確かめあっていたらしきブラッドリー夫妻のことは?」

「その夫婦に愛があったかは知らない。しかし間違いなく言えることは、夜の生活は充実していたということだ。私はここへ着いてすぐ夫妻の家に向かった。警察はとうに引き払った後で、もぬけの殻だった。愛欲の棒は発見できなかったが、錠前破りは得意なものでね。五分とかからず中に入った」

 彼は私を手でさえぎった。

「ヤードの目の節穴さは研究対象にしてもいいくらいだ。年の離れた夫婦の仲がセックスだけで繋がっており、夫が不倫していた事実を示す手紙を床の隠し戸から見つけた。一緒にたくさんの玩具たちもな。一つは玉の煉瓦がついており、差し込んで玉をはずせば腸には傷ひとつつけずに遊べるものだ。これは玉のほうしか発見できなかった。私は外へ出て、若い男がひとり屋敷の周囲をうろうろとしていたので、声をかけた」

「そいつがシャーマンじゃないですか」私は辛抱できずに口をはさんだ。教授は目を丸くした。「すみません、呪術師シャーマンにかけてレストレード警部の天敵をそう呼んでいるのです」

「シャーマンではない。男はとても警戒しており、私が警察関係者だと告げると、更に挙動を怪しくしたがね。私は当然男につかみかかった――ドイル、心配せずとも私はまだ老人ではない――。そこで妙なことに気がついた。彼は血の臭いを全身につけており、そこだけ見ると怪しいには違いないが、同業者特有の手をしていた。隙をついて男は逃げたが、私は構わず現場を捜索することに決めた」

「警部が会いに来ていったではないですか、不用意には動くなと――」

 私は自分で話すうちに、矛盾点を見つけた。「待ってください。ロンドンについてすぐ? それだとレストレード警部は」

「その後の話だ。私は警部とは初対面だった。いいかね、ドイル君。問題はすでに私がここについたとき、事件のすべては終わっていた可能性が高いことだ。私は君の到着を待ってしまった。君なしでここに来る気はしなかったし、君が必要だった。これは宿屋に帰ればわかることだが、私は昨日レストレードと名乗る男が私を訪ねてきたとき――」

「帰りましょう」私はきっぱりといった。

 宿屋についた私たちを待っていたのは、かなりの小男だった。イタチかネズミによく似ている。

「スコットランド警察のレストレードです。ご足労おかけしたのに申し訳ない。昨夜は手違いがありましてお訪ねすることは敵わず――どうかされましたか?」

 教授の態度は落ち着いたものだった。「犯人が自害したと聞きましたが」

 レストレードと名乗る男は気色ばんだ。

「どこのどいつが漏らしたのだ! いいですか、ウォーナー警部の手前あなた方をお呼びしただけで、警察の捜査に医師など必要ないと私は思っています。失礼」

 かなりの高圧的な態度だ。本物のレストレードは私がよく知る警察官そのものだったので、私は思わず笑ってしまった。教授が彼をなだめている間に、私は聞いた。

「警部。貴方の部下にホプキンズという男はいませんか」

「それはウォーナー警部の部下ですな」レストレードは鼻息荒くいった。「来週こちらに配属されると聞いているので、みっちり絞ってやるつもりです。警察の仕事を舐めた輩が多すぎる」

「――部外者を二人も署内に入れてしまうのですからな」

「は……?」

「あとひとつだけ」

 私は食い下がった。「スコットランドヤードには大変優秀な人材が揃っているようですが、インバネスコートを捜査の際に着用するなんて決まりはありますか」

「そんなもの着て街中を徘徊したら、目立って仕方ないでしょうが。あんたら私をおちょくっているのか」

 私と教授は楽しくなって、ほとんど同時にその言葉を発した。

「あなたを始終悩ませる人間の名前を教えてください。レストレード警部」

「おかしなことを言う人たちだ」警部は完全にあきれていた。「妻のローズと新任の巡査部長をのぞけば――」


 その先は必要ない。私とベル教授がその人物に再会したのは、それから何年も先の話であるからだ。


End.
</bar>
3/3ページ
スキ