Face-off
私は週末、患者とその付き添い人をすげなく追い返したことを後悔していた。
所得証明書の写しを書き、診察に来た患者の人数を思い出し、市街地からの知人の何人が生命保険に加入してくれるか計算しているうちに、その思いはますます強まった。
金の無いところから取るほど切迫しているわけではない。食べて寝られる以外にも娯楽を持っているし、余暇を使った執筆も名前を広めるのに一躍買っている。
問題は娯楽のほうも仕事のほうもタダではなく、薬はおろか紙を買う金にさえ困っていることだった。
「――」
私はペンを置いた。母への手紙はかなりの数になっている。弱音を吐くのは滅多になくとも、どういう臍の緒の繋がりか、小切手の額が年々増えていく気がする。
心配をかけないように、うまく事が運ばないものかと願っていた。仕事の順調さと収支が一致しないことは、私の不安を掻き立てるには充分だった。
午前中は繁盛していたのだが、半分の患者の支払いはツケだ。「また今度」を言うたびに自分が切り売りしているのは良心だと言い聞かせ、金の出所を考えるときはまだ得てない方の患者や仕事を頭に思い浮かべて不安を打ち消した。
その日は一日中、ひどい頭痛と吐き気に襲われ、なんとか気力で診察をこなしていた。看護師は間違いを起こさない程度には年上で、私の悩みをよく理解していた。
「大丈夫。いまに魔法のように解決しますよ。先生から楽天的な面と自信を取り除いたら何が残るっていうんですか」
「税金の取り立てかな――冗談だよ」
手紙を開封するためナイフを探しながら、すべては小切手なのだと意識を変えつつ開いて回った。私は背筋を伸ばした。
「見たまえ。ゼロがこんなにある。たいしたもんだろう?」
「請求書ですからね。頑張ってください。足りない薬品が山のようにあるんです」
「不味い紅茶のせいか腎臓疾患で死にそうだ。もう向こうへ行ってくれ」
「それも先生の甲斐性がないせいです。紅茶は私の好意で淹れています。ペーパーナイフの在りかを推理しましょうか」
「――やってくれ」
彼女は咳払いで応えた。
「所得証明の書類を十枚ほどめくってください。そう、それです。なぜわかったかって? すべてが三日前から同じ位置だからですよ! 掃除をさせる気がないなら自分で管理してくださいね」
前言撤回だ。看護師は少し年上なだけだった。そして今度こそ本気だった。結論を考えれば二十歳上でも同じだった。彼女は私のひとだ。
診察室を出る後ろ姿を目が追って、体ごと後ろへ倒れそうになった。積み重ねた書類をぶちまけるのも予想通り。
人生は、私の心に散ることのない大輪の薔薇を与えていたからだ。薔薇のほうでも美味しい紅茶を淹れる程度にはこちらを見て咲いていた。
災難のほうは外からやってくるしかなかった。
床に落とした書類の中から今朝届いたらしき一通の電報を拾い上げたときは、まったく気づかなかったのだ。
「ドクター・ベル――」
私は息を止めた。
***
突然、暗闇から声をかけられる場面だ。私はか弱くうら若き乙女になった気持ちで力強く振り返った。老人が私の細い喉を締めつける。近づく痘痕から臭いのきつい汁がプツリと音を立てて出る。
もう一歩近づけば私の得意とするところの馬鹿力でなぎ倒してやるのだが、残念なことに乙女の神経はすでに切れかけている。
彼女の声はそこで途切れる。暖炉の前で紅茶のカップを握り、震える体を片腕で抱き締める。傍らで襲われた話を熱心に聞いていた紳士が、彼女の指を握る。遠慮がちだが率直な質問を投げかけて、その怯えた心を解きほぐすのだ。
私はこの男の心理をすべて知っている。
乙女がむさ苦しい中年男であっても、可愛いげのない子供であっても態度は同じである。男にとって依頼人とは草原に落ちた小石と変わらぬので、必要にかられれば蹴りもする。宝石のように扱うのは情報が得られるまでだ。
男は悪いやつではないのだが、ときおり低く恨みがましい眼差しで私のことを一晩中見張っていたりするものだから、私としては今や彼を唯一の救いとしている乙女の袖口をそっと引っ張り、うながしてやりたくもあるのだ。
この尊大な男は人には言えない病気などたくさん持っていて、たとえば医者の私が彼のよく動く足先にある悩ましいウオノメなど、ちょっとペンで弄くった日には、泣いて頼むはずですよ、と。
「犯人は貴族の男か使用人。珍しいところで貴婦人か動物だ。どうせそうに決まっているのだから、話を早いところ終わらせて――」
「塗り薬をくれまいか、かね」
ベル教授は難しい顔をして足を組みかえた。息を吐き、含み笑いをして、流れる窓の外を見る。
教授から電報を受け取った私は、すぐにエディンバラへと向かった。彼は挨拶もそこそこに、私に旅行鞄を手渡し、駅へといざなったのだ。
あまりに沈黙が続くので心配になった私は、気持ちを落ち着けるため執筆中の作品について話していた。その甲斐あってか、教授は緊張していた体をゆるめ、脇に置いていた上着を膝にかけた。
「面白そうだな。しかしそれでは喜劇になってしまうだろう、ドイル君」
「血なまぐさいのはお嫌いなんでしょう」
彼は目を細めた。私はその色に悲しいほどの寂しさを見た。「それが本心なら医者にはならなかった。君はインクの匂いが好きらしい」
「通いの看護師が教授の手法を使っているんですよ。いや、規模としてはグッと小さいんですが、つい聞いてしまう。いつか教授の手法で主人公を創ろうと考えているんです。彼女のような人々に読ませるために」
「……彼女に?」
「彼女のような、です」私は咳払いした。「巷にあふれる古典やそれをもじった小説は、どれも一般人向けとは言いづらいでしょう? 僕がルソーの『告白』をどれだけ嫌がっているかご存知ですか」
「甘ったるさが鼻につくと言ってたな。次に従軍する機会があれば、フランス語版でも持っていくといい。見るのも嫌になるはずだ」
私は話を巧みにそらされた事実に気づき、この分からず屋をからかってやることに決めた。
「お願いするなら、考えます」
しかし教授は無表情だった。
「お願いしよう、ドイル君。その彼女より一日でも早く、君の次回作を読ませてくれ。そうすればいかに君といえども、そのような態度は――」
彼はぽかんと口を開けた私をのぞきこんだ。
「どうした? 君は一部の女性を対象にして『自分の作品を読ませる』と言ったのだ。私に対しても同じようにいくとは考えてはいまい。批評が怖いのかね」
「……先生。その」
もうあまり呼ばなくなった敬称を使ったせいか、彼の気を引くには充分だった。不機嫌そうに寄せていた眉を上げている。
教授は私の予想以上の反応で返してきたのだが、そのことには全く気づいてないらしかった。
「お願いとは、ルソーの本のことでした。ですが、もちろん興味があると言われるなら、僕の作品もぜひ――」
「ドイル君。近づきすぎだぞ。さて、そろそろ目的地だ。荷物をまとめろ」
無意識に早まった息を悟られたか。駅舎が近づけば人目がある。何か方法はないものかと頭をめぐらせ、私は教授の手元から革製の黒い手袋をむしりとり、一本一本音を立てて丁寧に口づけた。
教授はあきれたように差し出された手袋を見つめ、無言で指を嵌めたがその場では何もしなかった。
しかし私は見逃さなかった。列車を降りるときに人差し指を立て、彼の唇がその指先に偶然のように触れたのを。
「向こうだ。にやついていないで、馬車をとって来てくれ」
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