London Bridge
いつまでも来ない恋人を、橋の上で待ち続けるという歌もあったが。
劇的演出の雨がなくても、ロンドンの橋の多くが待ち合わせには適さない。
立ち込めた霧の嵐が視界を奪う。下流を流れるテムズ川の汚泥を吸い込む。寒さに震えて後ろを振り返れば、馬車に轢かれかける。
何時間待たされようと、日頃からホームズの不規則な生活を知る私には堪えられた。
橋の上でさえないなら。
たとえば、美味しい食事のあるレストランとか、酒の飲めるバーや、居眠りしても歌手の声でいびきは掻き消されるオペラ座などなら。
なぜ屋外なのだろう。道を挟んで向こう側の紳士は、二時間も前からいる……川からの悪臭に今にも倒れそうになっていた。気の毒に。
手持ちの煙草は全部吸ってしまった。あと四、五分して来なければ帰ろう。冷たい手摺りに背中を預け、道行く人のシルクハットを数えたり。職業当ての訓練をしようと手袋に包まれた手の形を想像したり。
花売りから買った花が五十本を越えそうになる。
すでに日が陰り始めている。本当はもっと有意義な一日になると考えていた。新しい事件の調査に同行できるか、プライベートな楽しみの誘いかもしれないと。
忠犬のように、朝から夕暮れまで待っていた自分の忍耐強さも恐れ入る。
考えると、若い時分からホームズの生活に振り回されてきた。独身のころは体力もあったし、それが普通と思ってきたが、限界だ。
私がイライラを抑えきれずに体を揺すっていると。向こう側の紳士が橋を掴んで、体を支えるのが見えた。
(具合が悪いのかな)
戸惑って視線を走らせる。誰も気づいていない。馬車やら人やら犬やらを避けて、慌てて駆け寄る。何度かパラソルさえぎられ、たどり着くまで遠く感じた。
「大丈夫ですか」
人波に押されて道の半ばで叫ぶと、紳士がこっちを見た。茶髪で黒い眼鏡をかけている。血色も良く、年もかなりいっている。似たところは一切ないのに。
私には、それが誰だかすぐにわかった。
「ホームズ……!」
紳士は驚いて、観念したように橋にもたれ掛かった。口元を手で押さえるのが見える。笑いを堪えたのだ。
「顔が真っ赤だよ、ワトスン」
「き、きみはいつからそこにいたんだ」
「知っているとおり、ずいぶん前から。遅刻はしてないよ」
澄ました表情で葉巻を出す。私はそれを奪い取って、川に捨てた。激しい罵倒の内容を、ひとつも覚えていない。喉が涸れて息が吸えなくなる。
ホームズは知らん顔で眼鏡をはずし、頬を片手でちょっとこすった。髪の毛を除き、ホームズの顔にもどる。
「この変装もいけるな。次は実践で使おう」
「言いたいことはそれだけかい。なぜ待ち合わせたんだ。変装のお試しにか」
「人の行動と心理の観察をしようと思ってね。環境に左右されず、どこまで人との約束を守れるかを」
私はそういうことなら、とうなずき、ほめられるのを期待して胸を張る。予想に反してホームズは不満気に顔をしかめた。
「ワトスン、きみの場合だとまるで役に立たないな! 健気すぎて、一般の市民では当てはまりそうにない」
何時間も待たされた揚げ句の苦言。頭の中で、何かが音を立てて切れた。
花束を投げつける。ホームズが道に落ちた分を拾っているうちに、きびすを返す。
「どこに行くんだね」
「帰るんだ」
ステッキを振り上げ、馬車を停めた。背中を押して、ホームズも無理矢理入ってくる。狭いことこの上ない。彼がかつらを取っただけで、御者が目を丸くした。
「降りてくれ」
「ちょっとふざけただけじゃないか、ワトスン」
「僕の半日を返してくれるのか!」
御者が咳ばらいをして、私たちの気を引く。ホームズが前払いで、と多めに渡した。なんでそんなことを、と振り返る。ガタンと揺れた拍子に持ったままの花と腕で窓を隠し。
抗議の言葉をキスでふさがれた。
「ん…………! んう」
ホームズ側の窓は、彼自身の体で隠れる。乗りかかるようにされたら、それ以上身動きがとれない。御者と連結した小窓を、必死で隠す。行為を見られたらただでは済まないのだ。
割り込む舌先に焦って胸を叩いた。
(何を考えてるんだ)
頭では理性が勝っていても、押し流されそうになる。抱きしめられているわけでもないのだ。離れることもできるのに。
理不尽だと感じても、心がそれを赦してしまう。執拗な唇が離れ、唾液が糸を引いた。花びらが落ち、その香りに御者が振り向く。プレゼントですか、と言った。
そうらしいよ、とホームズは花びらで口を押さえる。私は座席にへたり込んだ。なぜだろう。こちらを見た御者の顔に、見覚えがあるのだ。
ホームズが、機嫌のいいときだけ見せる、含み笑いをもらす。
「ワトスン。帰ったらたっぷりお詫びをしてもらうよ」
「なんのだい。僕は橋に立ってただけで、なにも……」
ホームズは私の耳に口を寄せた。囁き声にぞくりと奮える。
「悩ましげに眉をひそめて。川の湿度と霧のせいで肌が濡れて。御婦人の視線を一身に受けて」
再度体が近づき、私はさすがにホームズを押しのけようと抵抗した。伸ばした手を逆にとられ、引き寄せられる。
「……かわいいきみの立ち姿に見とれてたら、声をかけられなくなった。そのうえ腰を振られた日には」
鼻血を押さえるのに必死だったよ、と。首筋に息を吹きかけられる。
「腰なんて振った覚えはないぞ!」
思わず大声を出して、(しまった)と御者を見た。ホームズは体を丸めて私を抱きしめ、コンコンと窓を叩いて、聞こえよがしに叫ぶ。
「なるべく、ひとけのない通りを頼むよ。ウィギンズ君!遠回りしてくれ」
「わかりました。ホームズさん」
ベイカー・ストリート・イレギュラーズの子供が、すっかり変わり果てた大人になって、陽気な口笛を吹き。
期待した楽しいデートは、夢と消えたのだった。
End.
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