モンタギュー街の下宿人

 手間のかかる子供の相手も、嫌いではない。スタンリーは自分にいい聞かせながら、少年の手を引いた。引っ張られたほうは顔を盛大にしかめた。

「手を繋がなくても歩けるよ。子供じゃないんだから」

「成熟した大人はそんな口をきかないさ」

「貴方は大人なの?」

 街の喧騒をよそに、少年は気の強い口調を改めようとしなかった。スタンリーは少年の髪と同じ色をした栗色のマフラーを、引っ張りたい衝動にかられた。

 肩をすくめて笑ってごまかすスタンリーに、少年はため息を吐いた。

「僕は橋の向こう側に行きたいだけなんだ。そこに立っている警官に頼んだら追い払われちゃったよ」

「ロンドンは初めてかい」

 少年は聞いていなかった。巧みに人の視線をすり抜けて、目を合わせようとしない。

 スタンリーは馬車が跳ねた泥を避けた。路上にせりだした店の籠を蹴りそうになった少年の脇に手を入れると、彼はパシッとスタンリーを払った。

「線でも引いて馬車と歩行者を時間ごとに誘導すればいいのに。都会の連中は馬鹿じゃないのか」

 笑いを引っ込めるのに苦労する。少年は大人のそういった反応に慣れているのか、気にも止めなかった。

「そうすれば浮浪者の仕事ができるな」

 路地の脇に並んで寝転ぶ一人と目が合い、スタンリーはポケットを探った。金の臭いを嗅ぎ付けた浮浪児がフラリとやってくる。

 少年はスタンリーの腕を強く引き、施しをさせなかった。

「無駄骨だよ。根気強く教える人間がいないことには、管理する側だってまともに時計を見ることさえしないだろうから。それにさ、甘えているわけでないことは知っているけど。彼らも自分で立つことを覚えなきゃ」

 スタンリーはうなずいた。不便を感じる者たちが一定数を越えない限りは、交通事情も家を持たぬ者たちの生活も改善されはしないだろう。

「あそこにさ」少年が指を指した方角には、黒山の人だかりができている。「群がってる人たちの中には、ただ暇つぶしに物事を見てるだけの人間もいれば――目の前で起きていることが役に立つか否か、深く考えている人もいるわけでしょう」

「見世物だよ。君のいうとおり、ただの暇つぶしだ」

「ちょっとした見世物でもさ。人目に触れるか触れないかの話で、起こることの大抵は見世物なんだから。僕の両親が喧嘩するところ、貴方に見せてやりたいよ」

「面白いんだろうな」

「とっても」

 浮浪者の缶に金が放り込まれるのを見ながら、スタンリーは口をぽかんと開いた。

 真ん中で独特の芸を見せている男の容姿に見覚えはない。しかし芸には覚えがあった。昨夜の下宿人が見せたそれと寸分違わない。三文芝居の流行歌をオペラ風に変えて歌っている。

「ああ。でもこの歌はいいね。明日には忘れるだろうけど」

 少年はスタンリーの袖を引いた。「お金をあげてよ、お兄さん。芸術が何かわかってる人の歌だよ。それに……」

 スタンリーは帽子を傾け、浮浪者の目に映らぬよう人々の間を縫って、脇から手を出した。回っている缶の中に、金を滑り込ませる。

 背中を向ける前に、再度振り返ってしまった。どう考えても、ホームズの声ではなかった。

「――それに?」

 恋をしている人の歌だ、と少年は囁いた。
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