モンタギュー街の下宿人

 スタンリーが戻ったのは半月後だった。状態は家主から聞いていたのだが、彼はホームズの様子にあきれた。

「いつから髭を剃っていないんですか」

「言っただろう。役者なのだ。髭のある役が必要だったのさ」

「つけ髭を山ほど引き出しに入れてあるでしょう」

 シーツにくるまってベッドから出ようとしない。スタンリーは脱ぎ散らかしたホームズの服を片手に部屋を出ようとした。

「私のことは放っておいてくれ」

 本心からではない。スタンリーにはすぐわかった。

「スープを作りましょう」

「よせ。君の料理はひどい味だ。アントンに習ってからにしたほうがいい」

「だから『作りましょう』と言いました。塩気の多いスープを飲みたくないなら、五分以内に降りてきてください」

 準備のすんだ頃に、扉の前で腕組みをしてホームズが立っていた。音もなく近づくのは不気味だからやめてくれ、と口にする。

 きちんと髭をあたっている。自分が出てからすぐさま飛び起きたのだろうと思うと、少年の口元は自然と緩んだ。

「何を笑っているんだ」

「おかしいから」

「人の顔を見て笑う奴があるかね――」

 ホームズは台所の戸棚をパタパタとやり始めた。スタンリーが出ていった日よりも道具が増えている。

 ホームズは視線を受け止めた。「君のためではない。私は凝り性でね。断じて君のためではないが、料理の腕を上げたのだ」

「おじさんに習ったんですか。まさか」

 スタンリーは堪えきれずに、今度こそふき出した。自分が帰ってこなければどうするつもりだったのだろう。

 ホームズは黙々と根菜の皮を剥きながら、何でもないことのように呟いた。

「今度の舞台公演だが」

 スタンリーは洗い桶の皿を洗い始めた。「観に来いというのは無理ですよ。僕は演劇の類いがよくわからないんだ。寝てしまったりしたら大恥です」

「――」

「でも、科学研究のほうには興味があるな。ただ研究室は部外者には敷居が高い。特に子供だと」

「君は子供には見えない。誰かに見つかったら新しい助手として紹介しよう。しかし」ホームズはいった。「この間のこともまだ怒っているだろう。私と目を合わせない」

 スタンリーは手を洗い、片手を腰に当ててホームズを正面から見据えた。「あれからよく考えたんですが――僕が間違っていました」

「その話はよそう」ホームズは眉根を寄せた。「何とも思っていないさ。小皿を取ってくれ」

 スタンリーはホームズの腕に指を置いた。ホームズはスタンリーを見つめた。

「宗教のことが、貴方を受け入れられない理由になると思っていました。きちんと断るべきだった」

 ホームズは静かに待っていた。「私がどうして君を好きだと言ったのか、まだ話していない」

「――理由があるんですか」

「そう簡単に誰にでも惚れたりはしない」

 食事は台所の小机で取った。ホームズはむっつりと黙りこくって、それ以上話さなかった。スタンリーはため息を押し殺し、垂れ下がった暗い瞼の奥にある薄い目を見つめ続けた。

 アントンはスタンリーが戻ってきたことにホッとして、晩飯は腕を振るうからとご機嫌だった。

 少年は眠りにつく前に聖書を開いた。母親の形見の十字架は枕の下に入れた。

 どうしてわかったのだろう――スタンリーは考えた。いつから同性の友人に好意を抱くようになったのか自分でも覚えていない。ホームズにはわかるのだ。あの人の前では、隠し事が隠し事でなくなるのだ――。
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