モンタギュー街の下宿人
「スタンリー」モンタギュー街全体に響きそうな声だった。「――スタンリー!」
「ホームズさん。この家には今、貴方と僕しかいないのだ。聞こえていますよ」スタンリーは洗濯物を置いた。
「見てくれ、これを」部屋に半日こもっていたホームズは、興奮して叫んだ。「シャーレを取って。割ってはいけないぞ。見せるから、そっとだ」
「仕事が残っているんですよ。そして僕には勉強があるのだ」
スタンリーは諦めて、ホームズの手元から小さなガラス板を受け取った。ホームズは早口でいった。
「君は神学校には向いてない。目指すとしたら警察官だ」
「なぜ神学にいこうとしていることを知っているんです? ところで、このキラキラした緑色のものは何ですか」
「綺麗だろう。だが間違っても触るな。それは藻の一種だがこの薬剤を垂らすと毒気を持つのだ。たったこれだけで牛一頭くらいなら簡単に殺せる」
ホームズは眉ひとつ動かさずにいった。顕微鏡を使ってスタンリーに講釈をたれる。自分がこれを発見するのに、どのくらいの費用と時間を使ったか。そしてその手間と労力の代償は金ではなく、知的興味の満足感だけであることなどの気持ちを交えて。
「台所の壁裏に二十日鼠がいるんですよね。見た目は可愛いんだけど、こちらが寝ている間に指を噛むからいけない」
「よし、奴等で実験だ」
スタンリーは困ったが、鼠取りを使うよりはましかと思った。足だけちぎれたり耳だけもぎ取られたりする上に、瀕死のまま死にきれず何日も生きたまま腐って餓死したりするのだ。
「明日まで絶対触っては駄目だ。ビッグ・アントンには私から伝えて置くから」
ビッグ・アントンというのはこの下宿の主人であり、スタンリーの遠い親戚である。そのあだ名の通り体はすこぶる大きいが、気は優しい。本業の料理人が忙しくなってきたとはいえ、鼠殺しの実験が彼の気に入るとはスタンリーには到底思えなかった。
案の定、店から帰ったアントンはホームズの提案に眉をひそめた。「なっ……そんなものを使って、鼠の死体はどうすんだい、ホームズの旦那」
「ああ」ホームズはいいよどんだ。「言いにくいがね、その心配はないよ。毒素が強すぎて、鼠程度の体の大きさでは、組織細胞を保ってはいられなくなるだろう」
「つまり?」
「――一晩かけて、体が溶けるのだ」
スタンリーはぎょっとした。「待ってください、ホームズさん。それは聞いてない」
「ううむ」アントンは野太い腕を組んで眉根をいじり、溜め息をついた。「ま。干からびたのがあちこちいるよりマシか。ええです。好きにしなさって、結構です。うまくいくなら、うちの料理店でもぜひ……」
「駄目だ」スタンリーは断固として反対した。「駄目です。そんな可哀想なことはさせられない。普通の薬剤で充分ですよ」
「神の意思に反してるとか言うんではないだろうね」ホームズは鼻を鳴らした。「どんな死に方でも殺生は殺生。耳障りのいい処分の仕方を選んでも結果は同じ。欺瞞だよ」
スタンリーは彼をにらみつけ、歯を食いしばった。
「科学実験のなんたるかを貴方と言い争う気はないんですけどね、ホームズさん。僕がなぜ宗教に傾倒しているかご存知ないなら、人の信念を邪魔するような真似をすべき権利は貴方にもない」
「私は君のいう広範囲な意味での科学者ではないし、鼠一匹にも魂なるものがあることは理解しているさ。聖書を持ってきたまえ。牧師の気持ちで読んでやるから」
「結構です。僕はプロテスタントではない。わかってて言っているのだろうが」
間でおろおろしているアントンをよそに、二人は対決した。ホームズは冴えざえとした声を出した。
「君の母上はロンドンに蔓延している性病によって死んだのであり、その原因は君の父親が囲っていた売春婦のせいではなく、君の知る以外にもたくさんの女と付き合っていたからだ。君だけが呪われたもののように人間の本能的な性欲から目をそむけ、それを嫌って自らの一生を決めるような愚かな真似をするのは――」
スタンリーは最後まで聞かなかった。例のシャーレとフラスコを麻袋につめ、止める声も聞かずに路上に出ると、怒りに任せてそれを地面に叩きつけた。
「燃やしても大丈夫ですね?」
ホームズはうなったが、後から息を切らせてやって来たアントンにマッチを要求した。ホームズから火のついたマッチを受け取ったスタンリーは、冷淡な顔で自分がやるべきことをやった。
「……スタンリー」
「おやすみなさい、ホームズさん。伯父さん、しばらく僕は実家に帰るので、よろしくお願いします」
アントンは考え直すようスタンリーを説得にかかり、険悪なムードを何とかすべく夕食の席でも二人の仲を取り持ったが、結局うまくはいかなかった。
「ホームズさん。この家には今、貴方と僕しかいないのだ。聞こえていますよ」スタンリーは洗濯物を置いた。
「見てくれ、これを」部屋に半日こもっていたホームズは、興奮して叫んだ。「シャーレを取って。割ってはいけないぞ。見せるから、そっとだ」
「仕事が残っているんですよ。そして僕には勉強があるのだ」
スタンリーは諦めて、ホームズの手元から小さなガラス板を受け取った。ホームズは早口でいった。
「君は神学校には向いてない。目指すとしたら警察官だ」
「なぜ神学にいこうとしていることを知っているんです? ところで、このキラキラした緑色のものは何ですか」
「綺麗だろう。だが間違っても触るな。それは藻の一種だがこの薬剤を垂らすと毒気を持つのだ。たったこれだけで牛一頭くらいなら簡単に殺せる」
ホームズは眉ひとつ動かさずにいった。顕微鏡を使ってスタンリーに講釈をたれる。自分がこれを発見するのに、どのくらいの費用と時間を使ったか。そしてその手間と労力の代償は金ではなく、知的興味の満足感だけであることなどの気持ちを交えて。
「台所の壁裏に二十日鼠がいるんですよね。見た目は可愛いんだけど、こちらが寝ている間に指を噛むからいけない」
「よし、奴等で実験だ」
スタンリーは困ったが、鼠取りを使うよりはましかと思った。足だけちぎれたり耳だけもぎ取られたりする上に、瀕死のまま死にきれず何日も生きたまま腐って餓死したりするのだ。
「明日まで絶対触っては駄目だ。ビッグ・アントンには私から伝えて置くから」
ビッグ・アントンというのはこの下宿の主人であり、スタンリーの遠い親戚である。そのあだ名の通り体はすこぶる大きいが、気は優しい。本業の料理人が忙しくなってきたとはいえ、鼠殺しの実験が彼の気に入るとはスタンリーには到底思えなかった。
案の定、店から帰ったアントンはホームズの提案に眉をひそめた。「なっ……そんなものを使って、鼠の死体はどうすんだい、ホームズの旦那」
「ああ」ホームズはいいよどんだ。「言いにくいがね、その心配はないよ。毒素が強すぎて、鼠程度の体の大きさでは、組織細胞を保ってはいられなくなるだろう」
「つまり?」
「――一晩かけて、体が溶けるのだ」
スタンリーはぎょっとした。「待ってください、ホームズさん。それは聞いてない」
「ううむ」アントンは野太い腕を組んで眉根をいじり、溜め息をついた。「ま。干からびたのがあちこちいるよりマシか。ええです。好きにしなさって、結構です。うまくいくなら、うちの料理店でもぜひ……」
「駄目だ」スタンリーは断固として反対した。「駄目です。そんな可哀想なことはさせられない。普通の薬剤で充分ですよ」
「神の意思に反してるとか言うんではないだろうね」ホームズは鼻を鳴らした。「どんな死に方でも殺生は殺生。耳障りのいい処分の仕方を選んでも結果は同じ。欺瞞だよ」
スタンリーは彼をにらみつけ、歯を食いしばった。
「科学実験のなんたるかを貴方と言い争う気はないんですけどね、ホームズさん。僕がなぜ宗教に傾倒しているかご存知ないなら、人の信念を邪魔するような真似をすべき権利は貴方にもない」
「私は君のいう広範囲な意味での科学者ではないし、鼠一匹にも魂なるものがあることは理解しているさ。聖書を持ってきたまえ。牧師の気持ちで読んでやるから」
「結構です。僕はプロテスタントではない。わかってて言っているのだろうが」
間でおろおろしているアントンをよそに、二人は対決した。ホームズは冴えざえとした声を出した。
「君の母上はロンドンに蔓延している性病によって死んだのであり、その原因は君の父親が囲っていた売春婦のせいではなく、君の知る以外にもたくさんの女と付き合っていたからだ。君だけが呪われたもののように人間の本能的な性欲から目をそむけ、それを嫌って自らの一生を決めるような愚かな真似をするのは――」
スタンリーは最後まで聞かなかった。例のシャーレとフラスコを麻袋につめ、止める声も聞かずに路上に出ると、怒りに任せてそれを地面に叩きつけた。
「燃やしても大丈夫ですね?」
ホームズはうなったが、後から息を切らせてやって来たアントンにマッチを要求した。ホームズから火のついたマッチを受け取ったスタンリーは、冷淡な顔で自分がやるべきことをやった。
「……スタンリー」
「おやすみなさい、ホームズさん。伯父さん、しばらく僕は実家に帰るので、よろしくお願いします」
アントンは考え直すようスタンリーを説得にかかり、険悪なムードを何とかすべく夕食の席でも二人の仲を取り持ったが、結局うまくはいかなかった。