モンタギュー街の下宿人

 また別の日だった。男は一抱えもある薔薇の花束を買ってきた。

「これを君に」

「冗談でしょう」

 花などもらっても嬉しくはない。真剣なホームズの顔が落胆に一瞬歪み、素早く目線をそらしてスタンリーにいった。

「私の仕事は特殊でね。なに、ここの下宿代を余分に払える程度に研究所で研究を続けていれば、なんでも賄えるのだが。花のほうは客席からの贈り物だ」

「言ってることの半分も理解できませんが、つまり花束はあなたが買ってきたものではない、と?」

「ウィリアム・スコットという名前で役者をしているのだ」ホームズは首筋を掻いた。「他に質問は?」

「特にありません。扉を閉めて、夕食の時間まで部屋で本でも読んでいてください」

 ホームズは踵をカツンと鳴らし、後ろを向きかけてまた元の位置に戻った。

「僕が作ろうか」

「――なんですって?」

「私のほうが料理は上手い。君の手は案外武骨だし、これは昼間にやってる肉体労働が原因だがその年にしては疲労しすぎて、味覚が鈍ってる。座りたまえ」

「花を活けないと」

「座りたまえ、スタンリー」

 スタンリーは炊事場の丸くて小さな椅子に腰かけた。薔薇の花束は取り上げられる。

「鋏がどこかに。見つけられないんです」

 ホームズはにやりと笑った。

「推理しよう。亭主は無精者で、手作業に長けているがいい加減な面がある。料理人としての意地でいくつもの道具を揃えているが、包丁などの錆止めを行うときに鋏も一度に済ますはずだ。昨夜は新人の育成に時間を割かれ、帰宅したのは午前二時。慌ててやるべきことを思い出した証拠に、道具類がごっそりない。つまり寝室――」

「取ってきます」

「――ではなく、そう。君の横にある普段は使っていない戸棚の引き出しだな。見たまえ。刺すべき場所に包丁を置く暇もなかったと見えて、そこに傷がついてる。昨日まではなかった」

 そんな馬鹿な、とスタンリーは思ったが、引き出しをそっと開けた。「わ」

「ほらね」

「……すごい!」スタンリーは興奮で頬を赤くした。「すごいですよ、ホームズさん。今のはどうやったんですか?」

「そうだな、とても初歩的な……」

 スタンリーは鋏を取り出し、ホームズの手元の薔薇を嗅いだ。

「薔薇は嫌いではないんです」

「うん」ホームズは息をつめた。「うん、よかった」

「あなたのことも、嫌いではありません」

 ホームズは眉をひそめた。「期待を持たせるような真似をしないでくれ。ただ、この花は、そう。綺麗だろう」

「隠しても耳が真っ赤ですよ」

「スタンリー。私には正直なところわからない。君がどんなものが好きで、どういう楽しみを持っていて……いや、薔薇が好きなことはわかっていた。しかし」

「推理とはどういう意味ですか?」

 ホームズは天井を仰いで、少年の整った顔から賢明に意識をそらした。「またの機会に。離れてくれ。食事をつくる」

 ふたりはホームズの部屋でささやかな夕食を取った。ロマンティックな演出はなかったが、楽しい時間を過ごした。

 スタンリーが変人とばかり決めつけてかかっていた男は、食事の席での会話に長けており、少年の心を薔薇のトゲ一本ぶんくらいは射止めた。
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