Rest house
「“哀れなシャーロック・ホームズ。救いようのない狂信者――”か」
「なんだいそれは」
「――君は見るな」
討論会の出来は上々だったが、その後にストランドに書いた妖精の記事がドイルの評判をまた落とした。
その名前で書かれる探偵の名前もだ。ホームズ自身に例えられることに慣れてはいたが、このような形で見たいわけでは無論ない。
ホームズは煙草の代わりに雑誌を取った。
「合理主義者はほっときたまえ」
とげのある言葉を歌うように口ずさむ。ぱらぱらとめくりながら机の端に腰かけた。
「ああ、君もかつてはそうだっけね」
「もっと嫌みったらしく言えばいい。君にはその権利があるからな」
「反発に負けず逃げも隠れもせず、信念を貫き通している男に追い討ちをかけるほど落ちぶれちゃいない」
言葉にいたわりの色を感じて、ドイルの機嫌は少し持ち直した。しかしホームズは言い直した。
「世間体を気にしない馬鹿正直だったかな」
「世間体が気になるから、人目を引かない都会に住む予定にしていたのだ。それを君が」
「牢屋行きの前に頭がお花畑なのだから、片田舎が君にはお似合いだ」
ロンドンからさほど離れてはいないが、借りたコテージは二人では広すぎる。
こちらは更に興味深い、とホームズが新聞を手にすると、ドイルは眉をひそめた。
「それは君の名前での批判文だぞ」
「僕が度重なる攻撃に疲れている友人を公然と責め立てるような人間に思われている証拠さ」
「……そのように書いたのは私だ」
「君と、ワトスンと、僕だ。客観的に見て事件以外の内容に口出しすることもあっただろう」
「たまにはあったかもしれない。しかし大半はワトスン博士の記録に基づく私の創作だ」
「責任の所在がどこにあるかについては議論の余地がない。謝罪があるなら受け入れよう」
「君が冷徹な性格なのはワトスンでさえフォローしきれなかった事実だ」
「ならお互いさまだ」
転がっているパイプをこちらへよこせと手招きするので、記事から目を離させるためにわざと離れた場所に置いた。
小手先のいたずらは彼には通用しない。長い体をひねって机の上に半ば乗り上げる。ドイルだけが落とした書類を取るはめになった。
「彼らは『ホームズ』という名の玩具を奪われた気分になって、慎みを忘れてしまった。職を失った馬丁の語る、脚色された探偵物語を楽しんでいる文盲の子供に、本を突きつけて正しいものを読めと迫るような連中だ」
「なんの話だ。聞いたことがない」
「言ったことがない。『シャーロック・ホームズ』を何か人間以外の違う生き物だと思っている輩の話だ。ワトスンなんぞは今後も知る必要がない」
ぽつぽつと語るホームズの横顔に陰がかかった。
「だがその気違いじみた言い分に君やワトスンが耳を傾け、気に病むというなら僕の出方も変わってくる。より哀れむべき存在が誰か、明白だね」
「私のことか?」
「彼らのことだ」
ドイルはちょっと悩んで言った。「その馬丁は懐中時計にソブリン金貨をつけているヤツか」
日の暮れかかっている寂しい部屋で、橙色に染まった髪を無意識に撫でつける。ホームズの返事は遅かった。
「僕は負けた女の写真よりエメラルドの指輪がほしい。買ってくれるのか」
「気持ち悪いから慰めるのはもうよせ」
ドイルはワトスンのように素直になるべきかどうか自分に問いかけた。彼は目の前の男を手放しに持ち上げては惜しみ無く称賛を与えることで、関係を保っているのだ。
だいたい今のは彼なりの――。
「指輪はやらんが、煙草入れなら考えよう」
「指輪だとまずいのか」
ずいぶん押してくる。まずいに決まっているが誰に対してかはわからない。世間か、妻子か、ワトスンか。
うなり声を咳払いで隠した。
「実験中に外してなくすのがオチだ」
「失せ物も探せなくなったときこそ職を変えるときだろう」
「初日にこの部屋のありさまでも自信があるようだな」
「君にも半分責任がある」
ここがお互いどちらともなく必要性を感じて、アーサー・ホームズ名義で借りた家だからだ。女家主がいない代わりに掃除も洗濯も食事も自分たちで用意しなければならない。
妙にしおらしい態度の正体を考え、ドイルは唇の端を持ち上げた。「家を借りただけで愛人気どりか」
「借りたのではない。買ったのだ」
ドイルはぽかんと口を開けた。ホームズはまだ記事が気にいらないのか釈然としない顔で新聞をにらみつけている。
「どういう意味だ。借家じゃない? この広さで?」
「伊達に君より五年も長く生きてるわけではない。金のことなら心配するな。ワトスンにはバレたが次に開業するとき元手を工面する約束で口止め料にした」
「バレたってどういう意味でだ……」
いや聞くまい。ドイルは涼しい顔をしているホームズに内心頭を抱えた。
「口止め料も含めて私も半分出そう」
「将来的に農場を持つ予定だ。不要になったらここは売り払い、探偵業もやめてそこへ引っ込む」
――不要になったら。
それは関係の解消を意味する。躊躇した相手の心を察してかホームズは言った。
「煙草入れを楽しみにしているよ」
「指輪にしよう」
「ふふん」
「写真が欲しいならそれもつけよう」
「女装した君の写真など目の保養になるものか」
「……女装が前提なのか」
「なんだいそれは」
「――君は見るな」
討論会の出来は上々だったが、その後にストランドに書いた妖精の記事がドイルの評判をまた落とした。
その名前で書かれる探偵の名前もだ。ホームズ自身に例えられることに慣れてはいたが、このような形で見たいわけでは無論ない。
ホームズは煙草の代わりに雑誌を取った。
「合理主義者はほっときたまえ」
とげのある言葉を歌うように口ずさむ。ぱらぱらとめくりながら机の端に腰かけた。
「ああ、君もかつてはそうだっけね」
「もっと嫌みったらしく言えばいい。君にはその権利があるからな」
「反発に負けず逃げも隠れもせず、信念を貫き通している男に追い討ちをかけるほど落ちぶれちゃいない」
言葉にいたわりの色を感じて、ドイルの機嫌は少し持ち直した。しかしホームズは言い直した。
「世間体を気にしない馬鹿正直だったかな」
「世間体が気になるから、人目を引かない都会に住む予定にしていたのだ。それを君が」
「牢屋行きの前に頭がお花畑なのだから、片田舎が君にはお似合いだ」
ロンドンからさほど離れてはいないが、借りたコテージは二人では広すぎる。
こちらは更に興味深い、とホームズが新聞を手にすると、ドイルは眉をひそめた。
「それは君の名前での批判文だぞ」
「僕が度重なる攻撃に疲れている友人を公然と責め立てるような人間に思われている証拠さ」
「……そのように書いたのは私だ」
「君と、ワトスンと、僕だ。客観的に見て事件以外の内容に口出しすることもあっただろう」
「たまにはあったかもしれない。しかし大半はワトスン博士の記録に基づく私の創作だ」
「責任の所在がどこにあるかについては議論の余地がない。謝罪があるなら受け入れよう」
「君が冷徹な性格なのはワトスンでさえフォローしきれなかった事実だ」
「ならお互いさまだ」
転がっているパイプをこちらへよこせと手招きするので、記事から目を離させるためにわざと離れた場所に置いた。
小手先のいたずらは彼には通用しない。長い体をひねって机の上に半ば乗り上げる。ドイルだけが落とした書類を取るはめになった。
「彼らは『ホームズ』という名の玩具を奪われた気分になって、慎みを忘れてしまった。職を失った馬丁の語る、脚色された探偵物語を楽しんでいる文盲の子供に、本を突きつけて正しいものを読めと迫るような連中だ」
「なんの話だ。聞いたことがない」
「言ったことがない。『シャーロック・ホームズ』を何か人間以外の違う生き物だと思っている輩の話だ。ワトスンなんぞは今後も知る必要がない」
ぽつぽつと語るホームズの横顔に陰がかかった。
「だがその気違いじみた言い分に君やワトスンが耳を傾け、気に病むというなら僕の出方も変わってくる。より哀れむべき存在が誰か、明白だね」
「私のことか?」
「彼らのことだ」
ドイルはちょっと悩んで言った。「その馬丁は懐中時計にソブリン金貨をつけているヤツか」
日の暮れかかっている寂しい部屋で、橙色に染まった髪を無意識に撫でつける。ホームズの返事は遅かった。
「僕は負けた女の写真よりエメラルドの指輪がほしい。買ってくれるのか」
「気持ち悪いから慰めるのはもうよせ」
ドイルはワトスンのように素直になるべきかどうか自分に問いかけた。彼は目の前の男を手放しに持ち上げては惜しみ無く称賛を与えることで、関係を保っているのだ。
だいたい今のは彼なりの――。
「指輪はやらんが、煙草入れなら考えよう」
「指輪だとまずいのか」
ずいぶん押してくる。まずいに決まっているが誰に対してかはわからない。世間か、妻子か、ワトスンか。
うなり声を咳払いで隠した。
「実験中に外してなくすのがオチだ」
「失せ物も探せなくなったときこそ職を変えるときだろう」
「初日にこの部屋のありさまでも自信があるようだな」
「君にも半分責任がある」
ここがお互いどちらともなく必要性を感じて、アーサー・ホームズ名義で借りた家だからだ。女家主がいない代わりに掃除も洗濯も食事も自分たちで用意しなければならない。
妙にしおらしい態度の正体を考え、ドイルは唇の端を持ち上げた。「家を借りただけで愛人気どりか」
「借りたのではない。買ったのだ」
ドイルはぽかんと口を開けた。ホームズはまだ記事が気にいらないのか釈然としない顔で新聞をにらみつけている。
「どういう意味だ。借家じゃない? この広さで?」
「伊達に君より五年も長く生きてるわけではない。金のことなら心配するな。ワトスンにはバレたが次に開業するとき元手を工面する約束で口止め料にした」
「バレたってどういう意味でだ……」
いや聞くまい。ドイルは涼しい顔をしているホームズに内心頭を抱えた。
「口止め料も含めて私も半分出そう」
「将来的に農場を持つ予定だ。不要になったらここは売り払い、探偵業もやめてそこへ引っ込む」
――不要になったら。
それは関係の解消を意味する。躊躇した相手の心を察してかホームズは言った。
「煙草入れを楽しみにしているよ」
「指輪にしよう」
「ふふん」
「写真が欲しいならそれもつけよう」
「女装した君の写真など目の保養になるものか」
「……女装が前提なのか」