Rest house


 書き物机の前に向かったまま動かない。

 探偵は後ろを何度も往復したが、パイプに火はついていなかった。苛立ちを隠せず咳払いを繰り返す。

 ドイルは原稿を取り上げてうなった。

「静かに。今日中になんとかしてしまわねばならん。ワトスンの健忘症も年々ひどくなるが、私のほうも限界だ」

 そしてまたペンを走らせる。たまに目をつぶって眉間を挟みながら鼻柱の脇をかく姿を、ときどき探偵の目が追った。椅子の後ろに立って肩に手を置く。

「――なんだ」

「ひどく難解な暗号文でも与えてくれれば、すぐ帰るさ」

「体はひとつしかない。頭もだ」探偵が滑らすように落としかけた指を、ペンを持たぬほうの指で肩越しに握った。「来るのが二時間早かった。そこの長椅子で寝てもいい」

 温かな指だった。痩身を深々と折り曲げて額を寄せる。ドイルの目は医者の読みづらい文字を追い、その上から校正を施す仕事を淡々とこなした。

「窓際には立つな。ワイルドの一件でかなり厳しくなっている」

「彼は見せしめだ。本人も隠さなかった。人生をかけて主張したのだ。友人が蜘蛛の子を散らすように逃げても、霊的世界から離れようとしない君と同じだ」

 一緒にするな、とため息を吐く。「こうして君の活躍をワトスンと共同執筆している間は石も投げられない。それだけだ。お互いそろそろ距離を置いたほうがいい。わかるな」

 返事がない。ドイルは静かに続けた。

「世界中の人間から見張られる気分はわかるか――書いたものすべては私の名前で出る。称賛はワトスンが持っていく。コナン・ドイルは存在しないのだそうだ。嫌気がさしてホームズものを出さなくなれば、また人殺しと騒がれる」

 僕を殺せ、と探偵が囁いた。

 ドイルはペン先を止め、うなずいた。いい考えだ。そして首を振った。

「もう殺しただろう。そしてよみがえった」

「今度は死体まで書けばいい。完全犯罪の手口を教えよう。君たちが仲良く首をつき合わせて書いた作り物の話ではなく、完璧なやつだ。実行してもいい」

 ドイルは黙って、指を離した。ペンからも指からもだ。「何かあったのか」

 振り返ると同時に踵を返す。長椅子に転がり、無表情のまま口にした。

「ホームズの名で行われる君の批判を聞くのに疲れた。それだけだ」

「文句を言うな」

 怒りに満ちた眼差しを寄越す。挿し絵画家の書いたような整った顔ではない。武骨な頭に小さな灰色の目。荒削りな骨格。棒のように細くて長い。

 ドイルは腕を伸ばした。

「――三分だ」

「そんなものでは足りない」

「パイプ五服分だ」

「どちらも間違っている」

 口にしてから憮然として、壁のほうを向いた。ドイルは苦笑した。探偵は著作のほぼすべてを読んでいないことになっているのだ。

 では二時間後だ、ときっぱりいった。

 仕事に徹している間は静かだった。集中力が途切れて後ろを見ても、天井を眺めて微動だにしない。終わったぞと声をかけたが、宙をにらみつけていた。

「ホームズ」

「――君の本音を推理できる」

「人について何でも知っていると思うならそれは大きな間違いだ」

「残念ながら、君のことなら何でもわかる」

「いってみろ」

 ホームズは壁の方を向いたまま、ふうと息を吐いて言った。

「奥さんが死んだ。突然のことではない」

「それはワトスンも同じだ」

「長い療養生活に連れ添っている失意の間に、君が文筆業で築いた地位も君自身で泥を塗って終わりにした」

「とりあえず事実に違いはない。だがそれは推理でもなんでもない。私は他の話も書ける。探偵業から離れすぎて鈍ったか?」

「いまこそ僕に傍にいてほしいはずだ」

 ドイルは一瞬、ペンを止めた。しかしほんの少しだけだった。

「戻ってきてくれと頭を下げるのはごめんだ。特に君に対しては」

「ドイル君」ホームズは振り向いた。「そんな必要はない。そんな必要は、まったくない」

 ふたりは静かな部屋で音のない会話の残りを共有した。

 ドイルはしばらくペンを走らせていたが、ため息を吐いた。ホームズのそれとは違う、あきらめに満ちた息だった。

「おかえり。シャーロック」

「まだだよ――もう少しチベットでの休暇を楽しんだらね」

「……どっちなのだ」
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