サセックスの日々
嵐の夜だった。室内の薄暗さより、生暖かな隙間風が神経をさかなでる。ワトスン、と囁くと、彼は両手に抱えてきた布を窓際に重ねた。
「手分けするか」
「君は一階を、私は二階を」
「扉の数が多すぎる。屋根裏は君に任せても大丈夫かね?」
「頭をぶつかもしれんが――」
「では君が一階だ、ホームズ。いいな」
二階は雨漏りが激しいのだ。ワトスンにはわかっている。そして損な役回りを請け負うのだ。いつだってそうだ。彼は書こうとしないが、若いころの捜査もほとんどがワトスンの地道な協力によって成り立つことがあった。
日常的なことや事務的な何かは、ホームズの仕事ではなかった。報酬もろくになかった。ホームズがワトスンにこっそり買い与えた開業資金も、数年後には完済してきた。
布を切り裂き、びゅうびゅうと音を立てる扉の下に詰め込む。女の叫び声のような響きが、どこかの木の枝をなぎ倒した。衝撃が家全体に走る。
階段の上で、ワトスンがランタンを掲げた。ホームズは片手をあげた。
「大丈夫だ。普段の嵐はこんなものでは済まない。朝には止むだろう」
「確かなのか?」
ホームズは不安気な声に笑いをこらえた。「この程度で死にはしないぞ。いくらでも死線を乗り切ってきたではないか」
「それもそうだな」ワトスンは首を振った。「年を取ると死ぬのが怖いのだ。君より一秒でも長生きしたい」
「――そうしてくれると助かるね。だが、ワトスン。君のほうが年上なのだし」
その先は続かなかった。ワトスンは二階に行ってしまったし、雷が二度遠くで鳴ったからだ。
ホームズは手早く作業を済ませた。窓には板を釘付けする。本格的な闘いはこれからで、短時間でも集中豪雨の勢いは想像を遥かに越える被害をもたらすことがあるからだ。
しかし、ホームズは遠くなりかけている耳で何かを聞いた。
――犬の声だ。
「ワトスン」大声を出したが、彼には届かない。指笛を吹いた。「ジョン! こっちに来てくれ」
よたよたとワトスンが階段を降りてきた。「屋根裏は一人では難しいな。後にしよう」
しっ、と指を口に当て、扉を指す。鳴き声が再度聞こえた。
「野良犬かね」
「近所で犬は飼ってない。三軒隣が春にシェパードを仕入れたが」
「孫娘が持っていってしまったな。だいたい三軒といったって、丘と畑をいくつも跨いだ向こうじゃないか」
「入れよう。野犬ではないと思う。十年以上の老犬、雑種だが――ああ、駄目だ。耳なら君のほうが」
「君が扉を開ける。私が外に出る」
ホームズはむっとした。「馬鹿をいうな。君が扉、私が犬だ」
ワトスンはため息を吐いて、薄れゆく犬の荒い息を聞き取った。
「ホームズ。言いづらいがはっきり言おう。あれは雑種でも老犬でもない。恐らく狼の子供だ。弱ってはいるが、鋭い牙を持っている。そして私たちを噛み殺す」
「……」ホームズは息を鋭く吸った。「おそらく君のいう通りだ。引退して正解だった。それならなおさら――」
ワトスンの両手が延び、畑仕事ですっかり猫背になってしまったホームズの頬を捉えた。横皺のよった額に口づけられる。
「死ぬのが怖いと言ったのは忘れてくれ。やはり君を喪うことが一番堪えがたい」
「一緒にやろう。バスカビル家での出来事と同じだ。危険なことは、ふたりでやるのだ」
蝋燭の心もとない明かりがお互いの顔を照らし出した。ゆらめく視界を遮るように、ワトスンの顔がまた近づく。
合わせただけの唇からは、深い思いやりが感じられた。情熱も痺れも思考さえ奪うような熱い感情もない。
「よし――」
布地を取り払い、内側から扉をノックをしてみる。犬は悲鳴と唸りをあげたが、次の瞬間ドサリという音を立てた。
続く轟音の正体は、あくまで雨風だ。悪魔のように去りゆく空気が、床下をぞっと這い上がってきた。
扉を開ける。
ほんの軽い圧力でランタンが倒れた。ワトスンは慌てて倒れた蝋燭を足で踏みつけ、顔をあげると真っ暗で何も見えなかった。
「――ホームズ!」
咳き込む声がした。「大丈夫だ。犬も僕もまだ生きてる。君が正しかった。犬ではなく狼だ。しかし雑種だ。扉を閉めてくれ」
ワトスンは手探りで近づいた。はためくカーテンにまとわりつかれ、息もできなくなるが扉にたどり着く。体重で支えて無理やり閉めた。
「まだ暗がりでも目は見えるぞ」
ホームズは蝋燭に手持ちのマッチで火をつけた。硫黄の匂いが届くころには、ワトスンの目も急激な光に慣れた。
机の上の犬は死んだようになってピクリとも動かなかった。
乾いた布で体を拭いてやろうとする筋ばった指を、ワトスンの手が握った。
「結局君ひとりが危険をおかした。これは僕の仕事だ」
「ワトスン」
「君がわざとランタンを倒したことについては忘れてやろう。二階の暖炉に火を入れて暖めて来てくれ」
「暖炉の扉を開けたら雨どころの話ではすまない。焚き火もこの湿度では湿気って無理だな。本を焼こう」
二人がすべてを終えたころには、瀕死の犬もなんとか息を吹き返した。しかし老人たちは小さな冒険に疲れはて、ひとつの毛布にくるまり床で寝てしまった。
「手分けするか」
「君は一階を、私は二階を」
「扉の数が多すぎる。屋根裏は君に任せても大丈夫かね?」
「頭をぶつかもしれんが――」
「では君が一階だ、ホームズ。いいな」
二階は雨漏りが激しいのだ。ワトスンにはわかっている。そして損な役回りを請け負うのだ。いつだってそうだ。彼は書こうとしないが、若いころの捜査もほとんどがワトスンの地道な協力によって成り立つことがあった。
日常的なことや事務的な何かは、ホームズの仕事ではなかった。報酬もろくになかった。ホームズがワトスンにこっそり買い与えた開業資金も、数年後には完済してきた。
布を切り裂き、びゅうびゅうと音を立てる扉の下に詰め込む。女の叫び声のような響きが、どこかの木の枝をなぎ倒した。衝撃が家全体に走る。
階段の上で、ワトスンがランタンを掲げた。ホームズは片手をあげた。
「大丈夫だ。普段の嵐はこんなものでは済まない。朝には止むだろう」
「確かなのか?」
ホームズは不安気な声に笑いをこらえた。「この程度で死にはしないぞ。いくらでも死線を乗り切ってきたではないか」
「それもそうだな」ワトスンは首を振った。「年を取ると死ぬのが怖いのだ。君より一秒でも長生きしたい」
「――そうしてくれると助かるね。だが、ワトスン。君のほうが年上なのだし」
その先は続かなかった。ワトスンは二階に行ってしまったし、雷が二度遠くで鳴ったからだ。
ホームズは手早く作業を済ませた。窓には板を釘付けする。本格的な闘いはこれからで、短時間でも集中豪雨の勢いは想像を遥かに越える被害をもたらすことがあるからだ。
しかし、ホームズは遠くなりかけている耳で何かを聞いた。
――犬の声だ。
「ワトスン」大声を出したが、彼には届かない。指笛を吹いた。「ジョン! こっちに来てくれ」
よたよたとワトスンが階段を降りてきた。「屋根裏は一人では難しいな。後にしよう」
しっ、と指を口に当て、扉を指す。鳴き声が再度聞こえた。
「野良犬かね」
「近所で犬は飼ってない。三軒隣が春にシェパードを仕入れたが」
「孫娘が持っていってしまったな。だいたい三軒といったって、丘と畑をいくつも跨いだ向こうじゃないか」
「入れよう。野犬ではないと思う。十年以上の老犬、雑種だが――ああ、駄目だ。耳なら君のほうが」
「君が扉を開ける。私が外に出る」
ホームズはむっとした。「馬鹿をいうな。君が扉、私が犬だ」
ワトスンはため息を吐いて、薄れゆく犬の荒い息を聞き取った。
「ホームズ。言いづらいがはっきり言おう。あれは雑種でも老犬でもない。恐らく狼の子供だ。弱ってはいるが、鋭い牙を持っている。そして私たちを噛み殺す」
「……」ホームズは息を鋭く吸った。「おそらく君のいう通りだ。引退して正解だった。それならなおさら――」
ワトスンの両手が延び、畑仕事ですっかり猫背になってしまったホームズの頬を捉えた。横皺のよった額に口づけられる。
「死ぬのが怖いと言ったのは忘れてくれ。やはり君を喪うことが一番堪えがたい」
「一緒にやろう。バスカビル家での出来事と同じだ。危険なことは、ふたりでやるのだ」
蝋燭の心もとない明かりがお互いの顔を照らし出した。ゆらめく視界を遮るように、ワトスンの顔がまた近づく。
合わせただけの唇からは、深い思いやりが感じられた。情熱も痺れも思考さえ奪うような熱い感情もない。
「よし――」
布地を取り払い、内側から扉をノックをしてみる。犬は悲鳴と唸りをあげたが、次の瞬間ドサリという音を立てた。
続く轟音の正体は、あくまで雨風だ。悪魔のように去りゆく空気が、床下をぞっと這い上がってきた。
扉を開ける。
ほんの軽い圧力でランタンが倒れた。ワトスンは慌てて倒れた蝋燭を足で踏みつけ、顔をあげると真っ暗で何も見えなかった。
「――ホームズ!」
咳き込む声がした。「大丈夫だ。犬も僕もまだ生きてる。君が正しかった。犬ではなく狼だ。しかし雑種だ。扉を閉めてくれ」
ワトスンは手探りで近づいた。はためくカーテンにまとわりつかれ、息もできなくなるが扉にたどり着く。体重で支えて無理やり閉めた。
「まだ暗がりでも目は見えるぞ」
ホームズは蝋燭に手持ちのマッチで火をつけた。硫黄の匂いが届くころには、ワトスンの目も急激な光に慣れた。
机の上の犬は死んだようになってピクリとも動かなかった。
乾いた布で体を拭いてやろうとする筋ばった指を、ワトスンの手が握った。
「結局君ひとりが危険をおかした。これは僕の仕事だ」
「ワトスン」
「君がわざとランタンを倒したことについては忘れてやろう。二階の暖炉に火を入れて暖めて来てくれ」
「暖炉の扉を開けたら雨どころの話ではすまない。焚き火もこの湿度では湿気って無理だな。本を焼こう」
二人がすべてを終えたころには、瀕死の犬もなんとか息を吹き返した。しかし老人たちは小さな冒険に疲れはて、ひとつの毛布にくるまり床で寝てしまった。