サセックスの日々


「いい加減起きる気はないのか、ワトスン」

「起きてはいるさ。ベッドから出ないだけだ」

 あきれ声にも朦朧と答える。老人はしばらく待ったが寝息が返ってくるだけだった。

「一日中そうしているつもりかね」

 ワトスンは寝返りをうった。「年だというつもりはないが、最近朝が辛いのだ。田舎に住むなんて発想をしたのはいったい誰だ」

 ホームズは肩をすくめた。これまでの人生の中でも、互いの立ち位置が逆転することなど何度でもあった。しかしここまで極端にではない。

「もうじき昼だ。今朝は農場と森を挟んだ丘の向こうまで散歩に出たからね。まあ私も少々疲れたから、食事の時間までは寝ていても許そう。これを飲んで」

 ワトスンは重い体を少し起こした。サイドテーブルから甘い香りが漂うのに気づいたのだ。

「ホットミルクか。ありがたい。ブランデーが入っていれば文句なしだが」

「酒は入っていないが蜂蜜が少し」

 ワトスンは一口だけ飲んで、また居心地のよい夢の中へもどるため枕に身を寄せた。

 ホームズは脇に置かれた一人用のソファに腰をおろした。本を手に取り胸元をぱたぱたと叩く。「どこに置いたか覚えているかね」

「ひどい物忘れだな、ホームズ。私のを使いたまえ。引き出しに入っている」

「先日は老眼鏡という言葉が半日出なかった。信じられるかい」

「信じられる。なんせ君は太陽系についてもとんでもなく無知だった」

「君が私にまつわる冗談やらちょっとした習慣について話を上乗せし、さもそれだけが真実かのように書くせいで悪評が広まった。太陽が地球の周りを回っていることくらいあの頃も知っていたさ」

 返事がないのでよくみると、窓から射し込む陽気に微睡み、ワトスンはまた眠りに落ちかけていた。ぼんやりとしている。

「ああ……三十分経ってまだ起きる気配がなければ声をかけてくれ」

「ここにいるよ」

 ホームズはその様子を眺めつつ、痛む腰が落ち着ける場所を的確にとらえてソファに丸くなった。

 冬の蜂の巣箱についての保全維持について何か重要なことが書いてあったはずだが、どこに書いてあったのかまったく思い出せない。そのうち目線は年老いた男に向け直した。

 狂ったように騒がしく重苦しい世界から身を引いて、時計の針の音だけを聞く日々が当たり前になっていた。

 生活が一変したのはワトスンが来てからだ。田舎暮らしに慣れた自分が甲斐甲斐しく世話をする側にいつの間にか回っている。

「犬でも飼い始めた気分だ」

「――私のことかな」

「寝るんじゃなかったのかい」

「起きてはいるんだ。とてもいい気持ちだ」

「猫を飼うべきだったな。君を起こす用に」

 ワトスンはまた静かになった。ホームズは本に目をやり、眼鏡を少しずらした。裸眼の側でワトスンを盗み見る。

「飼ったら困るかね」

「世話をするのが君なら私に拒否権はないよ」

「愛玩するためではない。君で間に合っている。ベッドの足元に入ってきたら温かいだろう」

「体温の異常に低い君は論外だな。猫にするか」

「隣で眠ってやってもいいが、昼食は君が作ることになる」

 ワトスンは薄目を開けた。

「……足は洗っているかな?」

「湯を沸かして漬け込んだが、雪道のせいでまだ氷のようだよ」

「ベッドの縁に置けば暖めてやらないでもないよ」

 ホームズはスリッパも靴下も脱いでいう通りにした。老人の手のひらはとんでもなく柔らかかった。なでさする感触に目をつむりながら、ホームズはいった。

「ワトスン。春から農園の手伝いをすると言っていた話だが」

「君と椎間板の痛みを共有する約束だったな」

「あれはもういい。君はペンを握って本だけめくっていたまえ。祖母の手を思い出した」

「ペンを握って本だけめくり、猫を撫でていよう」

「右足がまだ冷たい」

「……。たまには君のことも」

「よろしい。ああ、いい気持ちだ」

 ホームズはソファの上で眠りに落ち、ワトスンは夕暮れまでその足を抱えながら寝てしまった。




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