サセックスの日々
暖炉の前で眠りこけているホームズに、ワトスンは毛布をかけた。
年老いて籠りがちになったワトスンとは対照的に、毎日蜂の世話や近隣の農園の手伝いをしている。疲れているのだ。
「ワトスン――煙草を」
「……起きていたのかね」
ホームズは答えずに、震える指先を伸ばした。薬の後遺症からくる神経の痛みが、しゃがれたうめき声を上げさせたのかもしれない。
六十を少し過ぎただけなのだが、探偵を引退したあとの肉体的な衰えは隠しようがなかった。彼の兄も早くに亡くなっている。
頭を休ませたくないのだろう。畑仕事で黒くなった皺だらけの顔を、更に歪ませた。
「煙草、を」
「煙は体に毒だ。食事にしよう」
ホームズは叫んだ。
「悪魔め――この悪魔! 二度と、二度と来るな、私のもとに――二度と」
癇癪で顔を真っ赤にさせながら、ふらふらと立ち上がった。膝頭が笑っている。垂れ下がる毛布を踏みつけた。
ワトスンは無言だった。
ホームズは溶けた頭脳を空回りさせ、必死で思い出そうとしているようだった。往復させる指で目の前の老人を示す。急に目尻が弛んだ。
「……肉が食べたい」
「いいだろう」
立ち上がると曲がりすぎた背が弧を描き、今やワトスンのほうが背が高かった。数歩歩いて引っ張られる。細腕が絡みついた。
「そうじゃない。そうでは――」
ため息をついて、片手で顔を覆った。言いたい言葉が見つからぬ理由は、加齢からくる脳疾患ではない。あれだけ止めたにもかかわらず、やめられなかったものの報いだ。
お互いに知っていた。理解していたのだ。戻ればまた違う世界があったかもしれない。
手紙だけのやり取りを経ての数年ぶりの再会だった。荷車に揺られる間の嫌な予感が的中したのだ。
案内してくれた村人は、土地の所有者がいかに偏屈で人を寄せつけない人間であるか、苦々しげに語った。重い病気で頭がいかれているという不穏な噂も合わせて。
来るのが遅かったのだ。
「錯乱を装っていると言ってくれ。昔のように」
ワトスンのかすれ声に、ホームズは静かにいった。「それなら、どれだけいいだろう。君の、そんな顔を見るくらいなら――私が。僕が、どれだけ」
後悔したことか、とは続かなかった。
ワトスンが震える手で煙草とマッチを胸元から取り出すと、彼はとても怒った。「自分は吸っているわけか。人にはやらせないで」
「君は食事のあとだ」
「固形物が食べられない理由は知っているかい。煙草もなくて、これ以上何を楽しみに生きればいいのだ」
「大丈夫だ。ホームズ。――大丈夫だ」
「君の」ホームズは唾を飲み込んだ。「君の、好きだったことをしてあげようか。もう噛む心配もない。二度と……二度と、」
「ホームズ。大事な話があるのだ」
彼は押し黙った。
「もう、手紙もよこさないとか、そういう類いの話かね?」
「……違う」
視線をはずして、顔を隠す。どちらのため息が気まずい沈黙を破ったのか理解するより前に、早口でまくしたてた。
「つき合いきれなくなったというなら、止めはしない。止めても無駄なのだろうが。なんせ君は二度目に結婚したとき、事前に報告さえしてくれなかった」
「君の反応が怖かったのだ」
「怖かった。そうだろう! そうだろうな。いいたまえ。覚悟はできてる」
早くに妻を亡くしたあとも結婚したが、また失ってしまった。それはホームズも同じだった。彼にも女だったり少年だったり老犬だったりといった相手はあったのだ。ワトスンが書かなかっただけだ。
「ホームズ。私は」
犬は行火がわりに。人は寂しさを紛らわすために。
「私は……」
しかしそれもすべては遠い記憶の名残りだ。ホームズは誰かを待っていた。その誰かが誰であったのは、もはや明白だった。
――たった一人で。
「さあ、いってくれ。あとどのくらい――君を待てばいいのか」
ワトスンは顔を上げた。ホームズはまだ顔を見せなかった。
「部屋の外に置いてある荷物以外に、どれくらい持ち込む気なのか。下旬代として、僕にいくら払ってくれるつもりなのかを」
意味をとらえるまでにしばらくかかった。
「……っ、ホームズ!」
彼はこらえきれないといった風に、顔を伏せたまま笑った。
ワトスンは一瞬のちに緊張感からドッと溢れ出た汗をぬぐい、いつ気づいた、といった。
ホームズはようやく皺くちゃに歪んだ面を上げた。
「君が汽車に乗る前に電話をしてきたとき、“もう一つの荷物はどうしますか、サー”と車掌が言ったのが聞こえたのだ。昨今のあれもかなり精度がマシになったようだね」
「耳が衰えていないなら何よりだ……しかし!」
怒りに満ちたワトスンの怒声にも動じず、ホームズは笑い声を切らさなかった。ふたりで寝る用のベッドを買うつもりなら狭いだろうが、と彼はささやいた。
「我が家へようこそ、ワトスン。待ちくたびれたよ」
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